三百十二 千早編 「動き出した状況」
沙奈子とどう接するかということでは誰が何を言ってても気にしないと言っておきながら、玲那が障害者年金を申請するかどうかでは世間の反応を気にするあたり、自分でも矛盾してると思う。だけど、『声の大きさ』という点ではそれぞれには大きな隔たりがあると感じるのも事実なんだ。
僕が沙奈子とどう接するかっていうのは、結局は家族の問題なわけで、口を挟んでくる人はそんなに多くないのは分かってる。だけど、玲那の件については、格好の攻撃材料になってしまうし、しかもその声も大きくて確実に傷付けることを狙ってくるし、そして実際に嫌がらせとかいう形で被害が出る可能性も高い。
そう、『実際に被害が出るかどうか』っていう点で大きな隔たりがあると感じるんだ。ただのほんの一部の人の陰口なら気にしないでいられるけど、現実に被害が出るようなことは無視できない。僕があれこれ言われるのはスルーできても、沙奈子や絵里奈や玲那を傷付けられるのは嫌だ。その辺りが、僕の境界線かもしれない。
そんなことを考えている間にバス停に着いて山仁さんの家に向かって歩く。もう自分の家に帰るみたいに当たり前に足が向いた。いつも通りに玄関前に立ってチャイムを押すと、玄関が見える窓から人がこちらの様子を覗く気配がして、それから玄関の鍵が開けられた。誰が来たか、ちゃんと確認してから鍵を開ける習慣が完全に身に着いてるのが分かった。
「おかえりなさい!」
出迎えてくれたのは、沙奈子と千早ちゃんと大希くんだった。いつもの光景だ。沙奈子はもちろんだけど、千早ちゃんや大希くんに対しても家族に迎えられるみたいな安心感がある。
「ただいま」と僕が応えると三人がリビングの方へ行くのを見届けて、すっかり癖になった玄関の鍵を閉めてから靴を脱いで二階へと上がる一連の動作をほとんど無意識のうちに行う。
「おかえりなさい」
二階に上がってからもそう迎えられて、「ただいま」ってやっぱり応えた。いつもの顔触れがそこにはあった。
僕から見て正面一番奥に山仁さん、山仁さんと並んでイチコさん、僕から見て左側に星谷さん。右側に波多野さんと田上さんっていうのが決まった席だった。
たぶん、僕が来るまで勉強でもしてたんだろうな。テーブルの上にはテキストが置かれたままだった。宿題は学校で済ましてくるって言ってたから、受験に向けての自主勉強って感じか。こうやってみんなで集まって楽しくやってるんだろうなっていうのがすごく分かった。
僕が席に着いて、スマホスタンドを借りてビデオ通話を繋いだスマホをテーブルの上に置くと、星谷さんが、
「それでは、本日の会合を始めます」
と声を上げた。
会合って言っても、今ではそんな堅苦しいものじゃなくて、ほとんど世間話をするだけのものになってたけどね。ただ今日は、少し雰囲気が違ってた。
「カナのお兄さんの裁判員裁判が、いよいよ来月から始まることが正式に決まりました」
星谷さんのその言葉に、僕も背筋が伸びるのを感じた。そうか、遂にか。見ると、散々迷走して状況を持て余してる感じだった波多野さんも、少し緊張感が戻ってるような顔をしてた。その上で、
「あ~、いいからもうとっとと決まっちゃって欲しいって感じ。私が希望したいのは、一生、刑務所に入っててってことだけどね」
だって。被害者としての本音だと思った。でもそんな波多野さんに対して星谷さんは、
「残念ながらそこまでの判決は出ないでしょうが、出来うる限り厳しい判決を望みたいというのは、私にも分かります。しかし審議するのは私たちではないので、見守るしかありません」
と、相変わらず冷静に応えた。
「分かってる分かってるって。結局は他に余罪も出てこなかったし初犯だし普段の素行はまあそんなに悪くなかったし、大した判決にはならないってのもさ。でも、被害者としてはそう言わせてもらいたいわけよ」
ままならない現実を前に、波多野さんは憮然とした顔で漏らした。イチコさんと田上さんが苦笑いを浮かべる。
「カナの意向は尊重します。だからこそ、刑を終えた後のことについての対応も始めています。性犯罪者の更生プログラムを実施して実績も上げているNPO法人との連携の準備も整っていますので、厳重な監視の下、しっかり更生していただきます。もう二度とカナを苦しめるような真似は許しません。いざとなれば薬学的な治療も受けていただきます。そのために専門家ともすでにコンタクトを取っています」
って、星谷さんが淡々と澱みなく宣言するようにそう言った。はあ…、相変わらず先の先まで考えてるんだなあ…。しかも薬学的な治療って、性衝動を薬によって抑えるっていうことらしい。性犯罪はどうしても再犯率が高いらしいから、確実に抑えるためにはそこまで視野に入れないといけないんだな。普通の人だとそういうところまで気が回らないだろうけど、こういうところでも星谷さんの見識が頼りになるっていうことか。
断固とした意志を感じるその言葉に、波多野さんもどこか安心したように表情が和らいだみたいに見えた気がした。
「ありがと、ピカ。あんたがそこまで言ってくれるから、あたしもやってこれてるんだと思う。あんたがあたしの友達で本当に良かった…」
波多野さんの言葉は、僕にとってもすごく実感のあるものだった。星谷さんにはどれだけ助けられたかもう分からないくらいだから。彼女がいなかったら僕たち家族もどうなっていたか…。
今回はそんな感じで久しぶりに姿勢が改まるような話があって、でも30分ほどでそれは終わった。だらだらと長引かせるんじゃなくて要点だけに絞って進行する星谷さんの凄さも改めて感じさせられた。
「それじゃ、失礼します」
僕たちの方は特に大きな変化もないし、沙奈子の体の変化とかいつまで一緒にお風呂に入るかっていうのは今のところは僕たちだけの話だから、話題にはしなかった。沙奈子としても自分の体のこととかあまり話題にしてほしくないだろうなって思ったし。
一階に降りると、その気配を察したのか、三人が玄関で待ってくれていた。僕が沙奈子を連れて外に出ると、星谷さんも千早ちゃんを連れて外に出てきて、田上さんも家に帰るために出て来た。
「じゃあ、また明日ね」
星谷さんに連れられた千早ちゃんが笑顔で手を振ってくれる。今日は、このまま家に帰るそうだった。家でハンバーグを作るんだって。
『お姉ちゃんもお母さんもおいしいって食べてくれるんだよ!』
そんな風に嬉しそうに話してた千早ちゃんの姿を思い出す。
波多野さんの家庭みたいにならないように、家族の関係をちゃんと取り戻せるようにと、僕は改めて願わずにはいられないのだった。




