三百十一 千早編 「一番大切なものと守りたいもの」
『大人になっても一緒にお風呂に入ってもいいよ』
というのは、僕としては本気でそう思ってるけど、世間的には相当に変なことだっていうのは僕も分かってる。だからそれはあくまで、沙奈子が望むならという前提での話だ。でもきっと、そんなに遠くないうちにこの子は一人で入れるようになると、決して明確な根拠はなかったけど確かにそう思えた。
首筋に火の点いた煙草か何かを押し付けられた時の恐怖や痛みも、いつかは和らいでいくと思う。そうすれば、恥ずかしいという気持ちの方が上回って、一人で入るようになると思う。僕はただそれを待てばいいだけだ。
そういうのを甘やかしてると思う人もいるかも知れない。でもこの子は、それまでずっと苦しんできたんだ。幸せな家庭に生まれた子が当たり前のように両親から与えられてきたものを、この子はもらえなかったんだ。それを今、補ってるだけなんだ。そういう事情を知らない人がそれを甘やかしてるとか言ってたとしても僕は気にしない。僕はこの目で、自分自身で沙奈子のことを見てそれが必要だと思ったからそうしてるんだ。目の前でこの子を見てない人が何を言おうと関係ない。
それを改めて確かめながら、僕は眠りに落ちていったのだった。
月曜日の朝。沙奈子の様子を見ると、普段通りに落ち着いた感じだった。僕はそれを見てホッとしていた。千早ちゃんのことも気になるけど、僕にとってはもちろん沙奈子が一番だからね。この子が落ち着いていられる状態の時に余裕があれば千早ちゃんのこともって感じだし。
極端な話をしたら、沙奈子と千早ちゃんのどちらかしか助けられないとなったら、僕は迷わず沙奈子を助ける。沙奈子だったら千早ちゃんを助けてほしいと思うはずだとか思っても、僕の気持ちとして沙奈子を助ける。
僕は聖人じゃない。善人でもない。僕は自分の大切な人を守るので精一杯の非力でちっぽけなただの人間なんだ。だから自分にできることしかできない。でもその代わり、もし、千早ちゃんのお母さんが千早ちゃんだけを助けたとしても、それは当然のことだと思う。と言うか、そうしてあげてほしい。沙奈子のことは僕が助ける。だから千早ちゃんのお母さんは千早ちゃんを助けてあげてほしい。本気でそう思ってる。そもそも、親っていうのはそういうもんじゃないのかな。
自分より他人なんて綺麗事を言う気にはなれない。僕は自分の家族が一番大事だ。世界よりも自分の家族を取る。例え、全ての人間に恨まれたって。
だけど、もし、自分の家族を守ったその上で誰かのことも守れるのならそうしたいって思うのも正直な気持ちなんだ。沙奈子を、絵里奈を、玲那を守った上で千早ちゃんを、大希くんを、星谷さんを、波多野さんを、イチコさんを、田上さんを、山仁さんを守れるのなら、そうしたいって思うんだ。
なんて、僕にそこまでの力があるなんて思わないけどさ。ただ、思うだけなら、ね。
だから、沙奈子と絵里奈と玲那のことを見守った上で千早ちゃんのことも見守ってあげられるのならって思うんだってことかな。だって、あの子は沙奈子にとって大切な友達だから。沙奈子のためにあの子も守りたいんだ。
大希くんのために沙奈子を守りたいと思ってくれる星谷さんの気持ちが、分かる気がする。彼女にはそれだけの力があるから、余計にそう思うんだろうな。そんな星谷さんでさえ、自分の力の限界を感じてる。だったら僕の力なんて本当に些細なものでしかないのは当然だよね。
そんなことをバスに乗ってしばらくいった辺りまで考えてから、今日も仕事のために心を閉ざした。この手順もすっかり慣れたなあ…。
仕事が終わって帰りのバスの中で、冷凍食品を解凍するみたいに自分の心も溶かしていく。正直、こんなことしなくてもいい仕事が見付かったら転職したいなとも思わなくもない。ただその一方で、会社に対して何か悪いことをしたわけでもないのに辞めるように仕向けられたのを受け入れることに対するやりきれなさも、全く感じないと言ったら嘘になる。その辺りが僕の未熟さとも思ったりもする。
だけどそれは今考えることじゃないかな。そこまで切羽詰まってないし。
星谷さんが立て替えてくれていた弁護士費用の支払いも、先月から始まってた。それもあって毎月の出費が給料を上回ってるのも事実だった。今のところは蓄えを少しずつ削って補ってる状態だ。絵里奈と玲那の方も、絵里奈の収入だけだと厳しいらしい。ただそれも、僕は僅かだけどボーナスが出るからそれで息を吐くことができるし、絵里奈たちの方も、フリマサイトの方が上手くいけば助けになるはずだった。
あと、弁護士の佐々本さんからのアドバイスで、玲那が声を出せないということで障碍者として認められたら障害年金を受け取ることができると言われた。病院で診断を受けて、一年後にもう一度同じように診断を受けて回復の見込みのない障害だと確認されれば障碍者として認められて、月々数万円程度だけど年金が支給されるんだって。
それは確かに助かると思う。話せないということは大きなハンデだ。ましてや玲那は有罪判決を受けてしまったから再就職も難しいだろうし。でも…。
でもそれを申請するべきかどうか、僕たちは迷っていた。佐々本さんは、
『これは、国民すべてに認められている権利でありセーフティーネットとしての制度です。誰はばかることなく利用すればいいんです』
と言ってくれたけど、殺人未遂の犯人として有罪判決を受けた玲那がそれを申請したことが世間に知られたとしたら、それこそ何を言われるか考えるのさえ怖かった。玲那に執行猶予がついたことにさえ相当な攻撃があったというくらいだし、その上、自分で自分を傷付けたことが原因の障害で年金を貰うなんてことになったら、せっかくほとぼりが冷めて静かになったところにまた攻撃のための材料を提供することになってしまうんじゃないかと思うと……。
絵里奈や玲那とも話し合って、一応、予備的な診断だけは受けてきてもらった。今の時点でも回復の見込みはないという診断をもらえて、これで一年後にもう一度検査をしてやっぱり回復の見込みなしと診断を受ければ申請できるということになるらしい。それでも、実際に申請するところまで踏み切れるかどうかは、全く分からない。とりあえず今後一年間、経済的な面でも回復の見込みがないとなればその時に改めて考えるということで、結論は先延ばしとなった。
お金は必要だ。今後、沙奈子が大きくなってくれば今よりもっと必要になってくると思う。沙奈子を守るためにもお金はいる。そのために利用できる制度があるのなら利用したい。けれどそれを利用したことで誰かから攻撃されて苦しめられたら意味がないんだ。
どっちが僕たちの家庭を守ることになるのか見極めなくちゃいけないんだと感じてたのだった。




