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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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二百九十三 玲那編 「僕たちが失ったもの。そして…」

コンビニで店員からひったくるみたいにしてレジ袋を受け取った僕は、走ってアパートへと向かった。走れば30秒とかからない距離だ。鍵を開けるのももどかしくドアを開けて、飛び込むようにして部屋に入った。


「沙奈子!」


このわずかな距離でも息切れしながらも、沙奈子の名前を呼んだ。その僕の前で、彼女は呆然と立ったまま、こっちを見ていた。


見た目には特におかしいところはなかった。部屋の中も別に変った様子もない。ただ、沙奈子だけが人形のように立ち尽くしてるだけだった。


靴を脱ぎ捨てて上がると、僕は沙奈子の体をそっと抱き寄せた。するとその途端に、彼女の体ががくがくと震えだした。なんだ?、なにがあったんだ?。


そう思いながらもう一度部屋を見渡すと、コタツの上のパソコンの画面に違和感を感じた。改めてよく見ると、タイムラインの画面だった。そこに映し出されたコメントを見て、僕は全てを察してしまったのだった。


「みんながれいなお姉ちゃんをイジメるの…。みんながおねえちゃんの悪口言ってるの……」


僕に抱き締められた沙奈子が、うわごとのように呟き出した。この子は見てしまったんだ。たぶん、トピックスか何かに玲那の名前が出ていたのを、思わずクリックしてしまったんだと思う。そこには、殺人未遂の犯人としての山下玲那に対するありとあらゆる罵詈雑言が並んでいたのだった。少なくとも、僕が秋嶋あきしまさんから見せられた程度のコメントの数々が。


大人である僕でさえ見るのが辛かったそれを、この子は見てしまったんだ…。


僕のせいだ…。この子を一人にしてしまった僕のせいだ…。僕は、またやってしまったんだ……。


沙奈子は言った。最初は呟くように、感情もこもらずただ漏れ出すように。だけどそれは、言葉を重ねるごとに徐々に強く、なにかが込められたものになっていった。


「どうして…?。ねえ、お父さん…。どうしてみんな、れいなお姉ちゃんをイジメるの…?。れいなお姉ちゃんはさいばんかんっていうえらい人に叱られてそれでもう終わったんだよね。


それなのにみんながお姉ちゃんをイジメるの……。『これが正義だ』って言ってる人もいた。


これが正義なの…?。


お父さん、みんなが言ってるのが正義なの…?。


これが正義なら、私、正義なんてキライ。大キライ…!。正義なんて大っキライ……!!」


それは、沙奈子の<意見>だった。これまではほとんど、他人が語り掛けてくれることに反応するだけだったこの子が、初めて、自分で感じて、自分で考えて、自分で言葉にした意見だった。でも、その初めての意見が、よりにもよってこれかよ…。


涙をいっぱいに溜めて怒った顔をした沙奈子を、僕は抱き締めた。そうするしかできなかった。


「…っぐ、え…、え、う…、うぁあぁぁ…」


必死で我慢しようとして、でも我慢しきれなくて、沙奈子は泣いた。声を上げて泣いた。絵里奈も玲那も画面の向こうにしかいないこの部屋の、僕の腕の中で……。


その沙奈子の様子を見て、絵里奈も泣いた。玲那も泣いてた。そして玲那からはメッセージがいくつも届いた。


『ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい沙奈子ちゃん。みんな、みんな私のせいだ。ごめんなさい』


違う…。そうじゃない。玲那のせいじゃない。確かにきっかけは玲那の事件だったかも知れない。だけど、この手の正義のふりをした悪意はネット上にはいつだって渦巻いているんだ。沙奈子はたまたまそれに触れてしまっただけだ。何の準備も心掛けもできてない状態でそれに打ちのめされてしまっただけだ。それが今回はたまたま玲那に向けられたものだっただけだ。だから責任があるとしたらやっぱり僕だ。僕がこの子を一人にしてしまったせいなんだ。


ちくしょう…。ちくしょう……。




この日以来、沙奈子は完全に笑わなくなった。僕の前でも、絵里奈の前でも、玲那の前でも、千早ちはやちゃんや大希ひろきくんの前でも笑わなくなった。だけどたぶんそれは、楽しいことがなくなったからじゃない気がする。でも、たとえ笑うという形ででも感情を表に出すと、自分が壊れてしまいそうになるから笑うのが怖くなったんじゃないかな。感情が抑えられなくなって…。


何故それが分かるのか…?。だって、僕もそうだから。沙奈子ほどじゃないとしても、僕も迂闊に感情を表に出そうとしたら精神のバランスを失いそうになるのを感じてたから。だから固い殻で自分を覆い、その殻で支える感じってことかな。ある意味、昔の僕たちに戻ったとも言えるかもしれない。心を閉ざし、あれこれ考えないことで苦しい状態を乗り切ろうとした僕たちに。


そうだ。今は耐えるしかない。この現状をとにかく凌ぎ切ることでしか打開はできない。相手は世間という名前の怪物だ。僕たちの力では太刀打ちできない。歯向かおうとすればそれこそ潰される。僕たちはただ、殻に閉じこもって嵐が過ぎるのを待つしかできないんだ。


こうして、家族の時間と、沙奈子の笑顔という、僕たちにとってとても大切なものを失って、玲那の事件については幕を閉じたのだった。


本当に、本当に、罪を犯すということの恐ろしさを思い知らされた一件だった。僕たちは、山仁さんや星谷さんたちの支えも受けながら、何とか日常を送ることを、平穏に過ごすことを心掛けた。静かに、ただ穏やかに。心を乱すことなく、まるでお寺の修行のように。そうすることでしか耐えることができそうになかったから。


どうしてこんなことになってしまったんだろう…?。


そんなことも頭をよぎりそうになったけど、今はそれを考える余裕もなかったから全部無視した。今それを考えると、悪い方へ悪い方へと考えてしまいそうだったし。


絵里奈も、玲那も、僕と同じだったらしい。ただ毎日を無事に過ごすことだけを考えて、淡々と過ごすようにしていたそうだった。そして毎週土曜日、四人が一緒になれると、その時間を大切にした。


正直、この頃のことについては、僕たち四人とも、あまりはっきりした記憶がなかった。玲那の裁判が終わるまで以上に記憶が曖昧だった。でも、とにかく淡々と穏やかに過ごそうとしてたということだけはできてたと、山仁さんや星谷さんから聞かされた。沙奈子も、学校では、笑顔はないけど落ち着いた様子だったらしい。正直、それが何よりだった。


僕たちがほんの少しだけでも自分を取り戻せた気になったのは、沙奈子が11歳の誕生日を迎えた頃だったかな。もうとにかく、三週間ほどは、何をどうしたのかも分からない状態で過ごした気がする。


まったく、沙奈子が辛い想いをすることが、僕たちにとっては一番ダメージになるんだってことも思い知らされた気がするよ。やっぱり、この子が僕たちの中心なんだなあ。


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