二千五百三十三 沙奈子編 「共感し合うこと」
『自分じゃない他の誰かの気持ちが完璧に理解できる』
残念だけど、そんなことは有り得ないと僕は実感してる。それどころか、自分自身の気持ちさえどこまでちゃんと理解できてるかと言ったら心許ないというのが人間ってものじゃないかな。
だからついつい、
『この人はきっとこう考えてるに違いない』
みたいに思い込んでしまうんだろうし。そしてそれは、正解だった時はまだいいとしても、実はそうじゃなかった時にはかえって問題を拗らせる危険性が高いと思う。
善意のつもりでしたことが、かえって相手を困らせたり不快にさせたり迷惑を掛けてしまうというのはまさしくそれだろうから。
千早ちゃんも大希くんも結人くんも、そのことをよく分かってる。自分はそうするのが正しいと思っていることで誰かを傷付けるみたいな行いを目の当たりにしてきて、しかもそれについて冷静に考える機会があったからだろうな。
よく、
『思春期の子供は共感し合うだけの会話を好む』
みたいなことを言われたりするらしいけど、千早ちゃんたちはもう、
『すぐ身近にいる相手とだって必ずしも共感できるわけじゃない』
のをよく分かっていて、しかも、
『自分にとって共感できない相手でも、決して価値がないわけじゃない』
と分かっているんだ。だから、
『相手の気持ちが分からないことがある』
現実ともちゃんと向き合えるんだよ。
そもそもどうして共感し合わずにいられないんだろう?。
『共感し合える他人』なんて、実際にはとても少ないはずなのに。
だからこそ、上辺だけの『共感し合ってるるふり』をやめたら、共感し合ってるふりをしている相手が目の前からいなくなったら、その人の悪口で他の誰かと盛り上がったりするんじゃないのかな。
本当に共感し合えてる相手のことを悪し様に貶すなんてできないと思うんだけどな。
だって、そんなことをされたらその人がどう感じるかってことも『共感』できるはずだし。
でも実際には共感なんてできてないから、陰口だって叩けるんだろうって感じるよ。
むしろ、誰かの悪口や陰口で盛り上がれるというのは、その部分だけで共感できてるからなんじゃないのかな。それ以外には本当に共感し合えてるわけじゃないから余計に盛り上がれてしまう。
それは言い換えると、
『上辺だけでも共感できるような話題でしか話ができない』
ということじゃないのかな。
対して、千早ちゃんも大希くんも結人くんも、
『自分以外の誰かの気持ちを完全に理解するなんてできないという現実』
を受け止められるだけの 精神的な余裕があるから、共感し合うことだけを求めなくても平気なんだよ。




