二千五百十一 沙奈子編 「それらの経験が」
沙奈子が自分の腕をボールペンで何度も突いて救急搬送されたこと。
玲那が実の母親の葬式で実の父親を刺した後で自殺を図って意識不明の重体となり生死の境をさまよったこと。
それらの経験が、今回のことを、
『そういうのと比べたら』
って気にさせてくれてるのは確かにあると思う。
でも、だからってそういう経験を重ねることで強くなれたって言われたら、まったくそんな気はしないかな。そういう経験そのものじゃなくて、その出来事を経験として活かせる状況があればこそだっていう実感はあるけどね。
ああそうだ。単につらかったり苦しかったりする経験を経ただけじゃ、人間は強くなんてならないと思う。それを強さに変えていける何かがあってこそなんじゃないかな。
僕はずっと疑問だった。同じようにつらくて苦しい境遇にいたのに、それを経験として強く生きられてる人と、自分の境遇を理由にして誰かを傷付ける側に回る人がいるという事実が。どうして似たような境遇にいたのにそんな違いが生まれてしまうのか。
これをただ本人の生まれついての気性とかで片付けてしまう人も多いかもしれないけど、僕はそれを『逃げ』だと感じる。見たくない現実から目を背けるための詭弁として、
『生まれつき』
って言葉を使ってるだけにしか思えないんだ。僕はそうやって逃げたくない。
僕には、沙奈子を自分の子供として育ててきた、玲緒奈をこの世界に送り出した、責任があるんだ。親としての責任というものとちゃんと向き合おうと思えば、『生まれつき』という言葉を、自分を甘やかすために使いたくない。
それに、『生まれつきの性格だから』みたいな形で安易に当人だけの責任にしてしまおうとする人って、『体質』や『遺伝子疾患』やそれこそ『生まれつきの形質』で他の人と同じようにできない人に対しては、
『体質の所為にするな』
『病気の所為にするな』
『生まれつきの特徴の所為にするな』
みたいなことを言ったりしそうな印象があるんだけどな。そういう体質や疾患や形質を持つ人に適した対応をする手間を掛けたくないから、『自分を甘やかしたいから』ということで。
結局、自分が『楽をしたい』『手を抜きたい』『面倒なことはしたくない』『現実と向き合いたくない』からこそ、『生まれつき』とかって言葉をいいように利用してるだけだよね?。
大人がそんなことをしてたら、そういう大人を見て育った子供も『自分もそれでいいんだ』と思ってしまうんじゃないかな。




