二千四百五十六 沙奈子編 「そういう性質」
三月十九日。日曜日。晴れ。
自分が親として子供を育てているからこそ、
『子供は自分の周りの人間、特に大人の振る舞いを見てそれを真似て人間としての在り方を学んでいく』
という実感があるし、その実感しかない。『生まれつきの性質』という意味では、玲緒奈はそれこそ我の強い傍若無人な性格をしてる子だと思う。今でも、朝は一番に目を覚まして、『僕で』遊ぶんだ。僕の体を道路、と言うか『山道』かな?に見立てて自動車の玩具で遊び始める。それで僕が寝られなくても、彼女はお構いなしだ。
無思慮で無遠慮で無配慮だよね。『相手の気持ち』も『相手の痛み』も理解してないし考えようともしてないよね。
玲緒奈は、『そういう性質』なんだとつくづく思う。
だけど、そんな玲緒奈でも、今は自分の思い通りにならなくても癇癪を起こして大声をあげたりはしないんだよ。『まったく別の人』になってしまったわけでもないのにね。
でもそれは、僕たちが、『自分の思い通りにならないからって大声で怒鳴ったり喚いたり暴れたりしない』からこそ、玲緒奈も自分の振る舞いについて見直してくれてるんだろうなって感じる。僕たちの真似をしようとしてくれてるんだろうなって感じる。だけど僕たちがそこで、自分の思い通りにならないからって大声で怒鳴って喚いて暴れたりしていたら、『自分もそうしていいんだ』って思ってしまうんじゃないかな。元々の性質がそうだったら、それこそ抑えが効かなくなるんじゃないかな。
『生まれつきの気質』『元々の性質』が与える影響なんて、その程度だと思うんだけどな。
中には病的な癇癪持ちの人もいるかもしれないけど、そういう人だって、『癇癪を起こさなきゃいけない理由』がなければ穏やかでいられたりもするんじゃないかな。猛獣がいつだって凶暴さを剥き出しにして暴れたりしてるわけじゃないのと同じで。
『相手を気遣う』というのは、それも含んでのことのような気がする。相手に『癇癪を起こして暴れなきゃいけない理由を与えない』というのもあってのことだと思うんだ。それを、子供のうちに周りの大人たちから学び取ることができれば、随分と違うと思うんだけど?。
『相手の意見に耳を傾ける』というのも、そういうことじゃないかな。『相手の意見に耳を傾ける』のと『相手の言いなりになる』のは違うんだ。その違いを分かってないと、相手が自分の都合にすべて合わせてくれないと『差別だ!』とか思ってしまうようになるんだろうなって気がするんだよ。




