二千四百六 沙奈子編 「なぜそうしてるのか?」
一月二十八日。土曜日。晴れ。
昨日の夕方から降り出した雪は、少し積もったけどさすがに前回ほどじゃなかった。
今回の大雪の一件で、『備えることの大切さ』を改めて思い知らされた気がする。
ただ、だからといって心配ばかりしてるのも違うんだろうな。大事なのは、
『想定はするけど、囚われ過ぎない』
ことだと思うんだ。それに囚われてしまうと、余計なトラブルを生み出してしまうだろうから。感染症対策についても、必要なのはあくまで『心掛け』であって『手段』じゃないんじゃないかな。手段そのものを目的にしてしまうからそれに囚われてしまう。それさえ守ってればいいと考えてしまう。
さらにそれを拗らせてしまうと、交通法規のこととかについても、『事故さえ起こさなければいい』という部分だけに囚われてしまって、
『自分は事故を起こさないから大丈夫』
みたいな捻じれた解釈をするようになってしまう気がする。
交通法規を守るのは、あくまで、
『決められたことを無視する行いによって生じる様々な影響』
について考えを巡らせる心構えであって、『事故さえ起こさなければいい』ということじゃないと思うんだよ。
僕は大人として、自分の子供たちである沙奈子や玲緒奈に僕自身の振る舞いという形で示していきたいと考えてる。そしてこれについても、
『振る舞いを示す』
ことそのものを目的にしてしまったら、『なぜそうしてるのか?』という部分を失念してしまうんじゃないかな。
どこまでも、
『沙奈子や玲緒奈が自らの行いによって不要なトラブルや不幸を招かないようにしてほしい』
というのが本来の目的であって、『法律やルールを守らせること』そのものが目的じゃないんだ。僕はそれを忘れたくないし、わきまえられる大人でいたい。
もちろん完璧ではいられないのも事実だとしても、だからといって努力をしないというのも違うはずだしね。『努力する』というのが何なのかについても、そういう形で示していく必要があると思う。
親として。
なにより、大人がいい加減なことをしていて子供に範を示せるはずもないよ。『パパ活』とか言われるようなものにしたって、大人が法律もルールも無視して買春なんかしてて、それで自分の体を売り物にする子供に対して、
『売る奴がいるのが悪い!』
とか抜け抜けと口にして『他人の所為』にしてて、どうして説得力があると思えるんだろう?。
本当に意味が分からない。『他人の所為にするな』『社会の所為にするな』『親の所為にするな』と言うのなら、大人がまず『他人の所為にしない』『社会の所為にしない』というのを手本として示すべきだよね。




