二百一 玲那編 「娘」
もしあれだったら星谷さんが来るまで一緒に待ってようかとも思ったけど、まだけっこう時間があるっていうことだからそれはさすがにってことで僕たちは帰ることになった。千早ちゃんは慣れてるのか、別に寂しそうにとかもせずに沙奈子を見送ってくれた。
千早ちゃんのことは、僕にはどうすることもできない。ただ、彼女には星谷さんがいるっていうのがせめてもだと思った。と言うか、赤の他人の子のために、保護者に代わって個人懇談に出る高校生の女の子って、なんなんだ?。超人か何かか?。もはや僕には同じ世界のこととは思えないほどの衝撃だった。そんなことができる人って本当にいるんだ…。
高校生の女の子相手に、人間として圧倒的な格の違いを見せ付けられた気がして、僕は軽く凹んでたのだった。もっとも、この時の僕が知らなかっただけで、星谷さんは星谷さんでいろいろ迷って悩んで試行錯誤をしてるんだっていうのを後になって知ることになったりしたんだけど。
まあそれはさて置いて、沙奈子と一緒に家に帰ると、彼女はさっそく裁縫道具を出してようやく再開できた莉奈の服作りを始めてた。しばらく休んでたからなのか左手がまだうまく動かないのか、どことなく以前より手間取ってる印象があった。それを見てると僕も苦しくなる感じがある。でも、これもやってるうちにまた戻っていくんだと考えるようにした。
その時、不意に玄関のチャイムが鳴らされた。誰だろうと思ってドアスコープを覗くと…。
「塚崎さん…?」
塚崎さんだった。玄関を開けて顔をのぞかせると、
「ああ、山下さん、いらっしゃったんですか。ちょうどよかった」
って言われた。沙奈子の様子が見られればと思って寄ってくれたそうだった。でも、僕は沙奈子が家に一人でいる時は誰が来ても玄関を開けないように言ってあるから、僕や絵里奈たちがいない時に来ても無駄足になるだけなんだけどなと思いつつ、上がってもらった。
部屋に上がった途端、塚崎さんは正座して姿勢を正して手をついて、深々と頭を下げた。
「この度のことは、本当に申し訳ございませんでした。改めてお詫び申し上げます」
その丁寧すぎる謝罪に、僕は逆に慌ててしまった。同じように正座して、頭を下げた。
「いえ、こちらこそ塚崎さんには本当に感謝してます。おかげで助かりました」
そう言った僕に、塚崎さんは心底申し訳なさそうに笑ってた。
「山下さんは本当に優しい方ですね」
優しい…。優しいか…。そう言われると、正直、違和感しかない。僕は優しいんじゃない。ただ、他人と揉め事を起こしたくないだけだ。そういうのを回避するためにあえて先に折れて穏便に済ませようとしてるだけだ。優しいのは塚崎さんの方で、僕はそれに乗っかってるだけでしかないと思う。でも、結果として穏便に済ませられるのならそれでいい。モンスター何とかっていわれるような人たちがわざわざ話を拗らせようとするのがどうしてなのか考えてしまったりするけど、僕はそうはなりたくなかった。
僕のそんな思考を知ってか知らずか、塚崎さんは続けた。
「ちょうど山下さんがいらっしゃったので申し上げますが、実は来支間が異動になりまして、どうやら謝罪に窺うことができなくなりそうなんです。そのことについてもお詫びをしないといけないと思っていたところなんです」
来支間さんが…?。
「これは、来支間の個人的な事情であって山下さんや沙奈子さんには全く関わりのない話なんですが、彼は本当は児童相談所には来たくなかったらしいんです。元々は別の部署を希望していて、ですが経験の一環として一時的に児童相談所に配置されていただけでした。そのことで彼は相当不満を募らせていたらしく、そのことが今回のことに繋がったのかも知れません」
……。
「加えて実は、先日、来支間と一緒に対応に当たった上役も、今期、別の部署から異動になって来たばかりの人間で、私たちの業務のことを深く理解していなかったというのもあります。ですが、だからと言って許されることだとは思いません。そのことで沙奈子さんの体と心に大きな傷を負わせてしまったことは、私たちの過ちです。心より、お詫び申し上げます」
そう言ってまた手をついて深々と頭を下げた塚崎さんの姿に、僕は戸惑うしかできなかったのだった。
塚崎さんが帰った後、沙奈子を膝に座らせて僕は考え事をしてた。
来支間さんが謝罪に来ないことは、もうどうでもいい。本音を言わせてもらえれば、顔も見たくない。それだけだから。
僕は他人との揉め事を拗らせないためなら、何だってする。『何だってする』というのは、必ずしも強引なこととか乱暴なこととかっていうことじゃない。自分がどれほど損をしても、問題を拗らせないことの方が大事っていう意味だ。問題を拗らせていつまでも嫌な思いをするくらいなら、損くらいしてもかまわない。損をすることで平穏が得られるのなら、それを取る。これが僕の価値観だ。他人にとやかく言われる筋合いはない。
だから来支間さんがもう関わらないでくれるのなら、それが僕にとって最も欲しい結果だ。謝罪なんか要らない。損害賠償も要らない。それに沙奈子の治療費だって、児童扶養手当を受けてたからそれに付随して医療扶助もあって無料だった。もっとも、医療扶助がなくても中学生までなら外来での自己負担は一ヶ月3000円だったらしいけど。つまり、保険適応の範囲内ならどんな治療したって3000円までということだ。だから経済的な損害は受けてない。だとしたら後は精神的な苦痛に対する慰謝料ってことになるかもしれないけど、それだって裁判とかにいつまでも煩わされることの方が僕にとってはよっぽど苦痛だ。だから要らない。
それを甘いとか悪い奴に都合が良いとか言うかも知れないけど、そんなの僕の知ったことじゃない。僕たちはただ平穏が欲しいだけだ。それだけなんだ。そのためなら損をしたって平気だっていうだけだ。
このまま僕たちが静かにしてて今回のことが終わるなら、僕はそれを選ぶ。他人にとやかく言わせない。
そんなことを考えてるうちに夕食の時間になって、沙奈子と一緒に夕食の用意をした。と言っても沙奈子には冷凍のお惣菜があるから、僕は冷凍のパスタを温めるだけなんだけどね。
夕食を終えて一緒にお風呂に入った。このことが性的虐待って言われるきっかけになったんだとしても、沙奈子が望むうちはそれに応えたい。この子はこれまでたくさんのものを失ってきたんだ。一緒にお風呂に入りたいっていう程度の希望を叶えることの何が悪いって言うんだ。
ほんの何時間かだけだったけど、僕はこの子が赤ん坊の時におむつだって替えたんだ。うっかりとはいえ、この子のうんちもおしっこも触ったんだ。この子がここに住むようになってからも、おねしょで汚れた服もシーツも洗ったし布団も干したんだ。沙奈子は僕の娘だ。それを性的な目でなんか見られるか。って、僕は思うのだった。




