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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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十六 沙奈子編 「心理」

土曜のお昼、病院からの帰り、僕と沙奈子はついでに買い物をしようといつもの大型スーパーに寄っていた。せっかくだからまた中の喫茶店で昼食にしようと思った。


「今日はオムライスがいい?。それともスパゲッティ?」


取り敢えず異常はないっていうことだからあまり思い悩んでも仕方ないと思って、気持ちを切り替えてみる。


「…スパゲッティがいい」


そう答えた沙奈子の顔を見たけど、彼女が今、どういう気持ちなのかはよく分からなかった。どう聞いたらいいのかもよく分からなくて、結局聞けなかった。


今日はスパゲッティ・ナポリタンを二つ注文して、待つ。相変わらず会話はない。それでも最近は、以前よりは気まずい感じじゃなくなってたように思ったけど、今日は微妙に沈黙が重く感じられた。そんなに気にしてないように見えても、もしかしたら彼女なりに悩んでるのかもしれないと思った。


当然か。慣れてきたとは言っても自分が預けられてる家の布団をこう毎日おねしょで汚したら、さすがに彼女にとっても深刻だよな。幸い僕も今のところは腹を立てたりせずに済んでるけど、これがずっと続くようだと正直言っていつまで平気でいられるか自信がない。やっぱり毎日大量の洗濯は辛い。体調の悪い時とか精神的に不安定になってる時につい苛立ってしまう可能性も否定はできない。


だけどそれは、沙奈子の方が僕より切実だ。もし僕がキレたりして部屋を追い出されたりしたら、せっかく今の生活に慣れてきたのに、また以前の状態に逆戻りだ。10歳の彼女がそこまで理解してるかどうかは分からないけど、施設に引き取られるみたいなことを心配してるかもしれない。


もちろん僕はそんなことするつもりもないけど、僕は決して聖人君子じゃない。落ち着いてられる時はそう思えても、精神的に追い詰められても今のままでいられるか…。


その時、一組の親子連れが喫茶店に入ってきた。何気なく視界に入っただけだったけど何か意識させられて改めて視線を向けると、山仁さん親子だってことに気が付いた。


「山仁さん」


僕は思わず声を掛けていた。


「あ、山下さん。こんにちは。お昼ですか?」


僕に気付いた山仁さんがそう言って頭を下げた。僕も頭を下げながら、「はい」と応えた。


「山下さん、こんにちは!」


山仁さんの息子さんも挨拶してくれた。でもそれは、僕に対してと言うより沙奈子に対してのもののようだった。すると沙奈子も、


「こんにちは」


と返事をした。その時の顔がすごく嬉しそうに見えた気がしたけど、すぐにいつもの感じの沙奈子に戻った。だけどそうやって僕が促さなくても挨拶をするところを見ると、確かに仲が良いんだと思った。山仁さんの息子さんが沙奈子の隣の席に座ったことで、山仁さんも僕の隣に着くことになった。


でも僕はちょっと気になることがあって、聞いてみた。


「山仁さんは夜にお仕事なさってるんでしたよね?。今日はお休みということですか?」


そうだ。山仁さんは夜に仕事をしてるので、昼はてっきり寝てるものだと思ってた。そんな僕に山仁さんは、


「今日は病院で検査の結果を聞いて来たんですよ。この子は私の付き添いです」


と答えた。


「どこか悪いんですか?」


「いえ、ちょっと胸が痛いような気がしたので念のために検査を受けたんですが、問題ありませんでした」


「それは良かったですね」


というようなやり取りをしていた時、僕達のスパゲッティが運ばれてきた。それを見た息子さんが、「僕もあれがいい」とおっしゃったので、その場で注文してた。その後、山仁さんはタブレットを取り出して、息子さんに使わせる。


「お先にいただきます」


「どうぞ」


とやり取りして、僕はスパゲッティを食べ始めた。


僕が食べ終わるころに山仁さんのところのスパゲッティが届き、息子さんが食べ始めるけど、タブレットを見たまま食べようとしてるのを見た山仁さんが、


「食べる時は無しだよ」


と穏やかに言うと、息子さんは素直にタブレットを置いて、食べることに集中した。


それを見て、僕は少し驚いた。こんな風に静かに言うだけで元気そうな男の子がすぐに従うというイメージが無かったからだ。沙奈子みたいにすごく大人しい子だったら分かるし、一見素直に従ってるように見えても実は嫌々っていうのも分かる。なにしろ僕もそうだったから。だけどさっきの息子さんのは、決してそういうのじゃなかった。


それを見た僕は、正直、この時には何の根拠もなかったけど、この人なら、って思った。この人なら相談できるかもって。


「すいません、山仁さん、実はアドバイスを頂きたいことが…」


そうやって声を掛けた僕に彼は、息子さんに言った時と同じ感じで応えてくれた。


「はい、いいですよ。私に分かることでしたらお答えします」


そして僕は、沙奈子を引き取ることになった経緯と、突然おねしょをし始めたことを正直に話した。さすがにこういう場所だとあまり大きな声では言えなかったけど、山仁さんは僕の方を向いて、静かに耳を傾けてくれたのだった。


「…なるほど、それは大変でしたね」


僕が一通り話し終えると、彼はそう言って頷いてくれた。それから改めて僕の方に向き直って、


「よく分かります。うちの上の子も、中学2年までおねしょしてましたから」


と言った。


「…え?」


一瞬、意味が分からなくて、思わず聞き返してしまう。え?、中学?。中学2年って言ったのか?。


「実は、私の子供達も、特に上の娘の方は、母親を亡くした後、今の沙奈子ちゃんと同じようにおねしょをするようになってしまったんです。当然、体には何の異常もありませんでしたから、沙奈子ちゃんがもらったのとおそらく同じ薬を処方されました。でもそれは、体の異常を治すための薬じゃないから、それこそただの気休めだと掛かり付けの小児科の先生にも言われました。だから私は薬には頼らず、敢えて自然に治るのを待ったんです。寝る時には紙おむつを使ってね」


呆気にとられる僕に言って聞かすように、山仁さんは落ち着いた口調で話し続けた。


「結局、中学の2年になるまで掛かりましたが、自然と治りましたよ。体に異常がないのなら体の成長と共に、精神的なものなら精神の成長と主に、いつかは治るものなんだと思います。私達親にできることは、それを信じて待つことなんでしょう」


聞き間違えじゃなかった。山仁さんは確かに、上のお子さんが中学2年までおねしょをしていたと言った。彼はさらに続ける。


「人間の心理というのはつくづく不思議なものだと、私は子供を育ててみて感じました。ストレスというのは何も、嫌なことがあった時ばかりに受けるものじゃないんだそうです。すごく嬉しいこと、喜ばしいこと、安心できることがあった時も、実はストレスになるそうなんですよ。例えば、長年ものすごく辛い境遇にいた人が突然それから解放されて、だけど急激な環境の変化に適応できなくてっていうのも、ストレス反応の一種みたいですね」


その言葉に、僕はハッとなった。沙奈子にとって一番大きな環境の変化と言えば確かに…。そして思わず聞いてみた。


「ということは…?」


山仁さんは改めて大きく頷いて、言った。


「沙奈子ちゃんは、たぶん、今が幸せ過ぎるんじゃないですか?。ずっと辛い生活を続けててそれに過剰適応してしまってて、今の幸せな生活に心と体がすぐには適応できてないのかも知れませんね。もちろん、私は精神科医でもカウンセラーでもありませんから、これは個人的な経験に基づくただの主観による見解ですが」


その言葉に、僕はただ呆気にとられるしかできないでいたのだった。


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