百五十六 沙奈子編 「疎通」
「玲那のことだから、どうせ泣きながら縋り付いてきたりしたんじゃないですか…?」
その指摘をさすがと言うべきなのかどうなのか。でも伊藤さんのことを良く分かってるんだなって気がした。
「うん、山田さんの言う通りだったよ」
僕が変に誤魔化さず正直に応えると、彼女はむしろホッとしたみたいな表情になった。
「じゃあ、玲那の体の傷のことは聞きました?」
その質問にも、黙って頷いた。ただ、僕の前で裸になったことについては、聞かれるまでは言わなくてもいいかと思った。ここまで察してるなら、たぶん、それも察してるだろうし。
「そうですか…、まあそれなら仕方ないですね」
何が仕方ないのかよく分からないけど、山田さん的には仕方ないらしい。彼女自身も何か納得いったみたいに落ち着いた感じだった。
「玲那って、子供みたいなとこありますよね」
そう言われて僕が頷くと、山田さんはふふっと笑った。何だかその顔が本当に伊藤さんのお母さんって感じに見えた気がした。
「玲那のことで詳しい話は、私の方からはちょっとできません。だけど、彼女が自暴自棄になって山下さんに迫ったりっていうんじゃないってことだけは理解してあげてほしいって思います」
山田さんが何を心配してたのかは僕にはよく分からない。でも、伊藤さんがあんなことをしたのは自暴自棄とかそういうのじゃないだろうなっていうのは僕にも分かった。そんな僕を見詰める山田さんは、どこか嬉しそうだった。
「さすが、玲那が『この人なら大丈夫』って言っただけはあるってすごく感じました。山下さんに初めて声を掛けた時はただのミーハーだったけど、二回目以降はそれこそ清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟だったんですよ。けど、その直感が当たってて、本当に良かったです。山下さんに声を掛けて、本当に良かった。これで彼女もやっと救われる……」
そう言った時の山田さんの視線は、僕を見てるようでいてでもどこか遠いところを見てるって気がした。『やっと救われる』という言葉の意味はまだよく分からない。でもその意味は敢えて深く考えないでいいような気もした。だけど一応、僕としても確認しておきたいと思った。
「伊藤さんは、僕に父親になって欲しいと思ってると理解する感じでいいのかな…?」
僕の問い掛けに、山田さんは「はい、それでいいと思います」と頭を下げた。だったらもう、僕に不安はなかった。父親として振る舞うということなら、沙奈子のおかげでかなり慣れたと思う。ここで男性としてとか恋人として振る舞って欲しいとか言われたら、逆に困ってしまってた気がする。だけど父親でいいのなら、沙奈子に対してしてるのと同じでいいのなら、たぶん大丈夫だ。
それにしてもやっぱり、子供が二人ってことになってしまうのかあ。不思議だな。
普通の男性なら、ここで『父親役とか嫌だ』って思うところかもしれない。体に傷があっても伊藤さんは十分に魅力的な女性だと思う。女性として見ることの方がずっと自然なことだと思う。けれど、僕にはそれができない。伊藤さんを女性として扱うよりは、自分の娘として接することの方がよっぽど僕にとっては自然なことに思えた。だって、伊藤さん、沙奈子よりも子供っぽいから。沙奈子と違って本当ならもう十分に大人の女性なのに僕の前で裸になったり服を着替えたりぼさぼさ頭のすっぴんで平気だったりなんて、すごく子供だよ。
何かとても辛くて苦しいことがあって、それで子供の頃からやり直したいんだとしたら、それに僕が協力できるなら、僕のことを利用してもらっていい。僕も、そうやって沙奈子や伊藤さんに必要とされることで満たされてる。こんな僕でも役に立てるんだって思える。だからこそ僕たちは出会ったんだろうなって素直に思える。
でも、そうなると、山田さんは…?。山田さんはどういう風に僕を必要としてるんだろう?。
そう考えてみると、山田さんが必要としてるのは本当は僕じゃなくて、沙奈子の方じゃないかって気がしてくる。沙奈子の傍に僕がいるから、沙奈子が僕を必要としてるから、山田さんも僕を認めてくれてるって気がする。だから聞いてみた。
「山田さんは、沙奈子のお母さんになりたいのかな?」
すると山田さんがちょっと困ったように笑った。
「そうかも知れないですね」
それに僕は付け足した。
「でも僕と結婚したいっていうのとはちょっと違う?」
僕の言葉にますます困った風に笑いながら、山田さんは大きく頭を下げた。
「ごめんなさい。その通りです。お見通しだったんですね」
お見通しって訳じゃないけど、僕としてもむしろその方がありがたいから。そう思った僕に山田さんが続けた。
「私も、本当は男の人がダメで…。だけど山下さんは私たちのことをそういう目で見てないっていうのがすごく分かって。だから山下さんのことが好きなのは本当なんです。でも男性として好きっていうのとは違ってて。それでも山下さんとだったら一緒に住めるかなって…。本当にごめんなさい。私たち、山下さんのことを利用しようとしてたんですね」
利用か…。でもそれは僕も同じだと思う。沙奈子の為に二人を利用しようとしてたんだ。僕の方こそ、二人と付き合うとか結婚するとかいう気は全然ないのに、沙奈子のことを気遣ってくれるからってその気持ちを利用しようとしてたんだと思う。だから…。
「じゃあ、お互い様ってことだね」
結局、そういうことなんだな。二人の本心みたいなのが分かって、僕は何だかすっきりした気分になってた。これでもう、気兼ねなく二人のことを頼れると思った。二人も僕のことを利用してるんだから。僕たちはお互いに利用し合ってるんだから。
ああでも、そうなるとちょっと別の気になることが…。だから僕は聞いてみた。
「ところで、伊藤さんのことを娘みたいに思うのはいいけど、それだったら『伊藤さん』って呼ぶのはおかしいかな?」
僕のその言葉を待ってたみたいに、山田さんはすごく嬉しそうだった。
「はい、沙奈子ちゃんのことを呼ぶみたいに、玲那って呼んであげてください。それから私のことも絵里奈って呼んでください。そしたら私も、達さんって呼ばせていただきます」
そうか…、何だか照れ臭いけど、その方が家族らしいって気がする。まさか自分が女性を名前で呼ぶことになるとか、たぶん一生ないって思ってた。恥ずかしくてそんなことできそうにないって思ってた。なのに、今なら普通に言えそうな気がする。だからさっそく。
「そうなるとやっぱり早く家を見付けないといけないね、絵里奈」
何の抵抗もなく自然とそう言えた。すると絵里奈もニコって笑いながら言ったのだった。
「はい、達さん」




