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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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百一 沙奈子編 「九死」

朝。今日は木曜日。昨夜の沙奈子の話が僕にとっては衝撃的過ぎて今も少し戸惑っていた。石生蔵いそくらさんの前に現れた不審者が、大希ひろきくんの家庭教師かあ。何度思い返してみてもわけの分からない話だと思った。


まあでもそれも僕があれこれ気を揉んでも仕方ない話だから、考え過ぎないようにしないとね。いずれ詳しい状況が分かればそれでいいかなということで。


いつもの儀式を終えて家を出て、会社に向かう。会社では、昨日よりもさらに少し慣れた感じになっていた。英田あいださんのことは気になりながらも、仕事についてはまあまあ普通にこなせるようになったと思う。英田さん自身の様子は、相変わらずって感じだけれど…。


「当事者じゃなければそういうものなんでしょうね」


昼休み、やっぱり僕と伊藤さんと山田さんの三人になった時、伊藤さんがそう言った。伊藤さん自身もそう感じてるんだと思った。すると山田さんも、


香保理かほりのことも、他の人にとっては他人事でした」


と寂しそうに言った。香保理さんというのは、二人の友達のことだったな。二人がそっくりなメイクをするきっかけになったっていう、リストカッターの人か…。だけど今ではその人が亡くなったことを二人は受け止められるようになって、そっくりメイクを止めたんだって言ってたな。


見れば伊藤さんは髪をアップにしたサイドテール。山田さんは髪のウェーブがすっかり取れてセミロングのストレートになってた。メイクの方も、伊藤さんは釣り目がちなのを活かしてシュッとした感じで、山田さんは垂れ目がちなのをそのまま活かした柔和な感じだった。って、女性のメイクをこんな風にしっかり見たのはこの二人が初めてって気がする。他の女性の顔をここまでマジマジ見るなんて、とてもできそうにないし。


「何か変ですか?」


僕があんまりジロジロ見てたのか、伊藤さんが自分の顔に手をやりながら聞いてきたのを、僕は慌てて取り繕った。


「あ、ごめん、そうじゃなくて二人ともすっかり印象変わったなって思って」


話の流れとは全然関係ないことを考えてた自分がちょっと情けなかった。だけど二人はそんな僕の様子を見て何だかホッとしたような顔をした。そして山田さんが言う。


「良かった。山下さんも少し普通の感じになれてますね」


と言われて僕は少し戸惑った。え、それってどういう…。すると伊藤さんが少しだけ微笑みながら言った。


「山下さん、火曜日からずっとすごく辛そうな顔してましたよ」


…あ、そうなんだ…。自分でも何となくそうかなって思ってたけど、改めて言われるとやっぱりそうだったんだなって思った。だけど、


「それは伊藤さんと山田さんも同じだよね」


って思わず返してた。そうだ。僕が辛そうな顔してるって言うんだったら、二人だってそうだと思う。


「やっぱりそう思います?」


二人がそうハモったから、僕は思わず口元が緩んでしまった。それにつられるようにして、伊藤さんと山田さんも少し笑った。


そうだよな。英田さんの前で楽しそうにするんでなければ、それ以外のところでまで僕たちが沈んでたって別に意味ないよな。完全に割り切るのは無理でも、なるべく気にし過ぎないようにしよう。素直にそう思えた。なんだかそれも二人のおかげのような気がする。


恋愛とかそういうのはまだ全然ピンとこないけど、伊藤さんと山田さんも僕にとっては大切な存在になってると思った。二人もまた、僕が人間らしくするためには必要なんだって感じた。でもこの二人と親しくなれたのも、沙奈子のおかげなんだよな、きっと。


それとは別に、思えばこの二人も、お互いに亡くなった友達になりきろうとしてた時はそれこそ僕にとっては別次元の人っていうくらい距離を感じることもあったのが、それぞれ自分なりの見た目になった今は、ずっと身近になったかも知れない。どっちが好きとかそういうのじゃなくても、親近感はある。亡くなった人になろうとしてたのは、何か不自然だったんだな。


それでも、ただメイクで似せてるだけなのを全く区別がつけられなかったのは僕自身の問題っていう気もする。他人に関心が無さすぎて、区別をつけること自体を諦めてた感じか。まあ、関心のない人に対してはそれは今でも変わってないかもだけど。


こうして少しだけ気持ちを入れ替えることが出来て、昼からの仕事に臨んだ。仕事中はもうあれこれ考えないようにして集中することができるようになってきた。多分これでいいんだと自分に言い聞かせた。


英田さんが定時で退社して、僕はさらにペースアップする。定時までにかなり進んでたからもう少しで終わりそうだ。社員食堂で夕食にするのはあえてやめて、そのまま一気に片付ける。すると7時過ぎに区切りをつけることができた。


それで僕はふと思った。今からなら会社の近くのホームセンターも開いてるはずだ。そこで布用の接着剤を買っていこう。


会社から出て、バス停とは逆の方に歩く。五分ほどでホームセンターが見えた。軽く駆け足で店に入り、接着剤のコーナーを探した。コーナーはすぐに見付かったけど、さすがに種類が多くてお目当ての布用の接着剤を見付けるのに少し手間取ってしまった。せっかく早く終われたんだから、早く家に帰りたい。早く沙奈子に会いたい。


会計を済ましてホームセンターを出る。バス停に向かって早足で歩く。交差点に差し掛かった時、歩行者用の信号が点滅を始めた。最近では横断歩道に入る前に点滅が始まったら止まるようにしてた。だけどこの日はせっかく早く帰れそうなんだから待つのがじれったくてそのまま突っ切ってしまった。


「え?」


その時、僕の視界にこっちに向かってくるライトが見えた。自動車だ。右折の自動車が、対向車が途切れたのを見計らって発進したんだ。


こういう時ってスローモーションに見えるっていうけど、本当だったんだな。頭のどこかでそんなことを考えてた。自動車がゆっくりとこっちに突っ込んでくるのに、体が動かない。避けなきゃいけないのは分かってるのに、いうことを聞いてくれない。沙奈子の顔が頭をよぎった。まさかと思った次の瞬間…。


数センチだった。僕の体のほんの数センチ前を自動車の車体がすり抜けていった。そしてそのまま走り去った。僕は茫然とそれを見送った。見送りつつ、横断歩道を渡り切った。渡った時には歩行者用信号は完全に赤になっていた。


「助かった…?」


体のどこも痛くない。当たった感触もない。そう、ぎりぎりで自動車が僕を躱したんだ。今のは、道交法で見れば歩行者が横断歩道を渡ろうとしてるのに突っ込んできた自動車が悪い。だけど、歩行者信号が点滅し始めたところでいつものように待ってればこんな九死に一生みたいなことにはならなかったのも事実だった。


そうだよ。僕は沙奈子のために事故とか遭っちゃいけないんだ。それなのにほんの数分の時間を惜しんで無理をして、下手をしたら死んでたかもしれなかったんだ。『急がば回れ』とか『急いては事を仕損じる』っていう言葉の意味を理解したんじゃなかったのか僕は?。


何事もなかったように歩道を歩きながら、分かってるはずのことでも何度でも言い聞かせなきゃいけない奴なんだ僕っていう人間はっていうのを思い知らされていたのだった。


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