膝枕
「花ちゃんおはよう! おはよう!」
「わ、わかったから……」
花が他人事のような顔でいると、拓美は視界を塞ぐように近づいてきて、しきりに目の前で手を振ってくる。
さすがにこれでは知らんぷりは通らない。
花ちゃん。
機嫌のいい時の父が、花を呼ぶ時と同じだった。
もちろんそれが嫌、というわけではないのだが、なんだかもやもやとするのでできればやめてほしい。
……のだが口にはできずにいると、拓美は勝手に隣を歩き始めて、
「花ちゃんに会いたいなぁって思ってたらまさかの遭遇でびっくりですよ」
「そ、そう……」
「お互いの思いが届いたね」
「……勝手にお互いにしないでくれる?」
こうして接している分には、到底悪人には見えない。
というか善とか悪とかそういう話ではなく、イマイチ掴みどころがなくて、どういう人間なのかがなかなか見えてこない。
ふざけて冗談ばかり言っているかと思えば、ふと寂しそうな表情を見せたりする。
そしてそれらすべてが、演技のようにすら見える。本当に不思議だった。
今も元気よく話しかけてきたかと思えば、急に静かだ。
花は前を向いてただ歩く拓美の横顔を、こっそり盗み見る。
さらりと流した柔らかそうな髪は、日に当たると茶色に見え、少し癖があるのかやや外巻きにハネている。
鼻から顎のラインが綺麗で、まつげも女の子のように長く目はぱっちりとした二重。
容姿が優れている、というのはこの際置いておいて、それだけでは説明のつかない彼独特の雰囲気がある。
繊細そうな表情から垣間見せる儚さ、と言ったら大げさだが、触れたら壊れてしまいそうな脆さのようなもの。
おそらくそういったミステリアスな印象が、女子を惹きつけるのではないだろうか。
そんなことを分析しながら観察を続けていると、ふと拓美の目の下に酷い隈ができているのに気づく。
昨日別れた時にはなかったものだ。思わず尋ねずにはいられない。
「それ、すごい隈ができてるけど……どうしたの?」
「え? ああ……。眠いんだけど……寝れなくて……」
拓美はそう言いかけたが、すぐになにか思いついたように、
「昨日、花ちゃんに嫌われたかと思ってショックで」
「わ、私のせいだって言うの?」
「うそ、うそ」
いたずらっぽく笑って手を振ってみせる。
こちらはちょっとムッとして、
「……別に、あれぐらいで嫌いになったりはしないから」
「えっ、ホント? じゃあ好き?」
「な、なんでそうなるのよ」
予想外の返しをされて閉口してしまう。
本気なのか冗談なのか。それでいて向こうはこちらの反応を楽しんでいるようなフシがある。
なんだか気に入らないので、花は仏頂面を作って乗せられないよう黙り込む。
「いやぁ、俺も自分でびっくりして、下ネタとかじゃないんだよ、ほんと」
拓美の弁解を聞き流しながら、花はつんと前を向いて歩みを早める。
また性懲りもなく……とも思ったが、それでも昨日に比べて、なんとなくだが拓美に元気がないように見えた。
彼が憔悴している理由……それはやはり、あの手紙のことだろう。
本人飄々としていて気にしていない素振りをしていたが、あんなものを受け取って、平静でいられるわけがない。
昨日、拓美が自宅で一瞬見せた、怒りとも悔しさとも悲しみともつかぬ複雑な表情を思い出して、花はあの手紙の差出人に対して憤りを感じ始めていた。
「……私、犯人を特定する方法、いくつか考えたんだけど」
「え?」
「言ったでしょ? 私負けず嫌いだって」
「なにそれ。別に花は負けてないよね」
「私がそれを見てしまって、見過ごした時点で負けなの」
そう言うと、拓美はおかしそうに笑った。
笑うと小さくえくぼが出て、可愛い。
……じゃなくて。
「どうにかしようと思わないの? 腹立たしいと思わない?」
「うーん……どうでもいいかな……今は。それより……眠くて。それと花の顔見てたら、お腹へった」
「なによそれは。朝ごはん、食べてないの?」
「昨日の夜から何も食べてないなぁ」
昨日彼の部屋に行った時に、買い置きしているのであろう大量のカップ麺が棚に積んであるのを見た。
その限りでは、おそらく普段からまともな食事をしていないのだろう。
花はやや血色の悪い拓美の顔をじっと見つめると、
「ちょっと来て」
強引に彼の腕を引いて、校門に吸い込まれていく生徒たちの群れからはぐれ、明後日の方へ向かった。
やってきたのは校舎の外れも外れ、植木や花壇が並びちょっとした憩いのスペースになっている場所。
奥にはベンチがいくつか並んでいて、晴れの日の昼休憩の時間などは生徒で賑わう。
もちろん朝の登校時間には、付近に寄り付くような人影はない。
花はその一番奥のベンチに近づき、落ちた木の葉をのけると、拓美にそこに座るよう促す。
半ばあっけにとられながらの拓美をよそに、花はすぐその隣に腰掛けると、ベンチに乗せたカバンの中から弁当箱を取り出した。
そして膝の上で包みを広げて、蓋を開けた弁当箱を拓美の胸元に差し出す。
「これ、食べなさい」
「えっ?」
拓美は変な声を出して、花の顔を二度見すると、
「だってそれ、花ちゃんのお弁当……」
「昼は何か買って食べるからいい」
「いや、でも……」
「いいから」
無理やり弁当箱を拓美に持たせて、箸も渡して、強引に押し切る。
我ながら、こういうところは父譲りだと思った。
すると花の有無を言わせぬ剣幕に押されたのか、拓美は観念したように弁当のおかずを一つ箸で持ち上げて、
「わぁ、すごい、見るからにうまそう。作ったのはお母さん? 料理上手なんだね」
勝手に一人合点しているのであえて口を挟まなかったが、作ったのは花自身だ。
つい思い立って行動に移してしまったが、よくよく考えれば家族以外に自分の作ったものを食べさせるのは初めてだった。
多分……いやきっと大丈夫だとは思うが、無言で咀嚼を続ける拓美を見ながら急に不安になってきて尋ねる。
「……ど、どう?」
返事がない。
急に心配になってきて、おそるおそる拓美の表情を覗き込むようにする。
が、そこで花は思わず目を見張った。
どういうわけか拓美は泣いていた。
いや本当に泣いているのかどうかは定かではないが、目元から涙が頬を伝っていた。
それでも黙って口を動かし続ける拓美に、花はすっかり混乱してしまって、
「……ど、どうかしたの?」
「ううん、おいしい、おいしくて……」
拓美が袖で頬を拭い始めたので、ハンカチを渡してやる。
すると「ありがとう、今日は濡れてないね」と拓美は笑った。
それなりに自信はあったが、泣くほどおいしい、というのもさすがにおかしな話だ。
かと言って、これ以上詮索するようなことも聞けず、花はただ黙って拓美を見守った。
やがて弁当箱の中を米粒一つ残さずカラにした拓美が、
「ごちそうさまです。とてもおいしかったです。ありがとう」
そう言ってぺこりとお辞儀をした。
なんだか気味が悪いぐらい素直だった。
満腹になると眠くなったのか、拓美はしきりに目をこすりだして、大きくあくびを始める。
「眠れなかったって、昨日は何時に寝たの?」
「何時っていうか、全然寝てないよ。寝られないからずっとゲームやってた。寝れたとしても、すぐ目が覚めちゃうし」
「全然って……。薬とかは……飲んでないの?」
「それがあんまり効かないんだよね~……」
拓美は眠たいのか、間延びした声を出す。
そしてぼーっとした顔で遠くを見ていたが、
「あ、花ちゃんが膝枕してくれたら眠れそうかも」
さも名案を思いついたかのように、花に向かって笑いかけてくる。
バカなこと言わないで、とすぐに返しかけたが、どこか力ない拓美の笑顔を見て思わず口をつぐむ。
とはいえ膝枕……なんてものは、もちろんしたことなどない。ましてや異性になど。
「……ちょっとだけなら」
花は自分でもよくわからないままそう口走っていた。
ちょっとだけなら。本当に、それ以上でもそれ以下でもない。
「マジかぁ……やった。言ってみるもんだなぁ~」
拓美はブツブツ言いながらベンチの上で身を横たえると、おかまいなしに膝の上に頭を乗せてきた。
太ももに不思議な感じの重みが伝わってくる。
「わぁ、夢みたいだぁ……」
拓美はまっすぐ花の顔を仰ぎ見ながら、嬉しそうに笑う。
一方であっという間に枕にされてしまって、まだ心の準備のできていなかった花は、内心ドキドキドキとものすごい速さで心臓が脈打つのを感じながらも、あくまで平静を装っていつもの表情を崩さずにいた。
やがてゆっくり目を閉じた拓美の顔を見下ろしているうちに、自然と伸びた手が彼の髪をゆっくりと撫でつけていた。
ものの一分ほどで、規則正しい小さな寝息が聞こえてきた。
綺麗な寝顔だと思った。少し顔色が白いな、とも思った。
しばらくして、登校時間終了を告げる予鈴が鳴った。
ちょっとどころかだいぶ長引いてしまって、いい加減に教室に行かないと、と思い、
「ねえ? そろそろ、時間……」
(――また泣いてる)
言いかけて、やめた。
代わりに目尻に溜まった涙を指ですくって、頭を撫でた。
そして生まれて初めて、花は授業を無断で欠席した。




