王太子殿下のお誘い
ゲシュニット領から王城へはかなりの距離がある。いくら空を駆ける馬車とはいえ光速で走るわけではない。
着いた頃には日もかなり高くなっていた。
陛下から来訪が伝えられていたのか、オズワルドが名乗るとすぐに執事長が出てきて客室へ案内された。彼の表情は終始硬く、警戒するような素振りだったのはきっと、オズワルドが自身に幻術をかけていたからであろう。
魔法の効かないマリアベル以外からすれば、腰のまがった初老の男と付き従うベールで顔を隠した妻にしか映らない。
確かに怪しいかもしれない、とマリアベルはベールを取って小さく息を吐いた。
「気疲れしたか? さっさと陛下に書類を渡して領地に戻る予定だが、時間の調整が出来るまでまだ暫くかかるかもしれない。今は休んでおくといい」
「さすがにそこまでひ弱ではありませんわ、オズワルド様」
「ならばいいのだが。まぁ、毎日掃除だなんだと走り回っているものな。いつもありがとう、マリアベル。身体が強くあれば自然と心もついてくる、というわけだな。……あー、なんだかアーロンが言いそうな言葉になってしまったな」
「筋肉をつければ自信に繋がるぞ、とは言われた事がありますが」
「あの脳筋。マリアベルに何を吹き込んでいるんだ」
オズワルドの脳裏には筋骨隆々な弟の笑みが浮かんでいるのだろう。「あいつはまったく」と文句を言いながらも表情は随分柔らかい。
――疲れているのはオズワルド様の方ですのに。
夜通し秘匿魔箱の解析に費やしていたのを知っている。それでもまだ開錠しきれていないらしく、彼はソファに腰掛けながら箱の溝を指でなぞったりしていた。微弱な魔力を流して反応を見ているらしい。
――少しくらい休んでほしいと願うのは、やはり我が儘なのでしょうね。
マリアベルは静かに彼の隣へ腰掛けた。
切ないが、マーガレットへの手土産と考えればすべての辻褄が合う。
私事ならば睡眠を削ってまで必死になる必要はない。身内の頼みならば理由を説明して待ってもらえればいい。けれどマーガレットへの手土産ならば今日を逃せば次はない。
ただの一言も話した事がなくとも、愛しい人のために何か利になることを。その思いは痛いほどわかるので口を挿む気にはなれなかった。
どれほど時間が経っただろう。
静かに時が過ぎていく部屋の中に、コンコンとドアをノックする音が響いた。謁見の準備が出来たに違いない。マリアベルは慌ててベールを被ると扉を開け――しかし、そこにいた人物に驚いて一歩後ずさった。
「やあ、マリアベル。久しぶりだな」
「殿下……?」
砂糖菓子のようにふわりと柔らかな金の髪。空を写し取った青い瞳。まるで童話に出てくる王子様さながらの美青年。彼こそが王位継承第一位、エインズ王太子殿下だ。
無類の美しいもの好きで、幼い頃はマリアベルが婚約者候補筆頭になっていたが、顔に火傷を負ってからは公爵家のマーガレットがその座を射止めた。
元婚約者ではなく元婚約者候補。そんなマリアベルにわざわざ王太子自ら会いに来るなど考えにくい。
となればオズワルドに用事だろうか。
マリアベルは「オズワルド様」と夫の名を呼んだ。
「何のご用でしょう、殿下」
「ははは。そう怖い顔をするな、エルズワース卿」
「すでに爵位はアーロンに譲り渡しております。今はただのオズワルドですよ」
「ああ、そうだったそうだった。すまないね」
エインズは悪びれもなく微笑むと、オズワルドの向かいにあるソファに腰掛けた。
「実は陛下はこのところ具合が悪くてね。少し回復を待ってみたが医者から無理はさせるなとの判断が下った。というわけで、代わりに私が書類を受け取るために参上したわけさ。わざわざ御足労をおかけして申し訳なかったね」
表情を一切変えずに手を差し出すエインズに、しぶしぶといった様子で封書を渡すオズワルド。彼は中の書類を確認すると「確かに」と言ってテーブルの上にそれを置いた。
「お詫びと言っては何だが、君たちの婚姻を祝って一席設けた。もちろん我が婚約者マーガレットを筆頭に様々な招待客を呼んでいる。服装は気にしなくてもいいが、必要とあらばドレスを用意させよう。ぜひ楽しんでいってくれ」
「は? 殿下は何をおっしゃっているのです?」
オズワルドは不快感を隠そうともせず、じろりとエインズを睨んだ。
――マーガレット。わざわざ牽制のようにその名を口にするだなんて。まさかエインズ殿下はオズワルド様の思いをご存じなのかしら。だったら、わたくしは……。
彼の後ろに立ち、ぎゅっと拳を握りしめる。
「ははは! お前のそのような顔は初めて見たな! 堅苦しく考えなくて良い。小さなパーティーだよ」
「申し訳ございませんが、謹んで辞退させていただきます。妻も私も煌びやかな場所は得意ではありませんし、急ぎの用事もありますので」
「おいおい待ってくれ。お前は私の言葉が聞こえていなかったのか? 君たちのために用意したと言ったんだ。ここで帰られては私の立つ瀬がなくなる」
「頼んでおりません」
「サプライズだよ、サプライズ。まぁ、私ではなくマー……いや、言うなと釘を刺されていたな」
エインズは封書を持って立ち上がり、オズワルドの後ろに控えているマリアベルの手を取った。
「殿下?」
「ともかく、参加してくれないと困るんだ。頼むよ、マリアベル。旧知の仲だろう?」
大切に育てられた箱入りのご令嬢ならば、思考すら蕩けて言いなりになってしまいそうな甘い笑み。しかしマリアベルはオズワルド以外の男性など、アーロンたち一部を除けば、一律庭に生えた雑草程度の興味しかない。
子供の頃、ほんの少し交流があったくらいで旧知の仲とは。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまいそうになる。きっと何か別の目的があるはずだ。例えばこのベールの下が気になる、とか。
マリアベルは失礼にならないよう気をつけながら、エインズの手を振りほどいた。
「……かしこまりました」
「マリアベル!? ……――ッ、殿下。妻を脅すような真似は止めていただきたい」
「おや、人聞きの悪い。私は一度も強制などしていないよ? すべてお願いだ。なぁ、マリアベル?」
なんと白々しい。
マリアベルはベールの向こうで目を細めた。
マーガレットの名が出ているのにオズワルドが渋る理由は、エインズと彼女の仲睦まじい様子を見たくないから、そしてマリアベルの負担になると理解しているからの二点だろう。たとえ元通りに近い顔になったとしても、人の視線を浴びるのは足がすくむ。
でも――マリアベルは首をふった。
「オズワルド様が参加なされないのであれば体調不良だとでもうそぶいて、わたくしだけでも参りましょう。これで、体裁は保てますわよね? 殿下」
「ん? ……まぁ、それはそうだが」
いつも守っていただいている身。オズワルドの妻としてここに立っている以上、彼のためになるのならば好奇の目に晒されたって構わない。マーガレットとの会話を望むならいくらでも連れ出そう。
「……分かった。僕も出る」
「ですが!」
「君を一人でなんて行かせられるか。……殿下には何かお考えがあるようだしな」
「ははは! 何のことやらだ」
エインズは「それでは楽しみにしているよ」と言い残して、食えない笑みを貼り付けたまま部屋を出ていった。
「あの様子ではあまり良い企みではなさそうだな。僕のそばを離れるんじゃないぞ?」
「申し訳ございません、オズワルド様……」
「何を謝る必要がある。どうせうんと言うまで逃してはくれなかったさ。遅かれ早かれ同じ結果だ。むしろ、無理をさせることになってすまない」
「……本当に、お優しい方」
マリアベルが微笑むと、いきなりベールを捲くられた。
「やはり顔が見えていないと寂しいな」
「まぁ、うふふ」
「大丈夫。君は僕が守る」
優しい手に頬を撫でられ、うっとりと目が細まる。オズワルドがそばにいるのなら何も怖いことはない。
マリアベルは彼の手に自身の手を添え、「わたくしに出来ることがありましたら、なんなりと」覚悟のこもった声でそう告げた。




