ドクター永益の憂鬱
カニの刃が俺に迫る。
反射的に生身の左腕を前に出して、ガードの形をとるのが精一杯だ。
左腕ごと全身を三本の爪に引き裂かれるイメージが、はっきりと頭の中に浮かんだ。
「清十郎さん!」
後方で美鈴さんの悲痛な声が聞こえた。
だが、俺の左腕はその三本の白刃を何事もないようにがっしりと受け止めてしまう。
「???!」
次の瞬間、美鈴さんをタンデム席に乗せたまま飛び上がったフライングバイクが、機首のレーザー砲を乱射しながらカニの腹に向かって突進する。
フライングバイクの先端がレーザー砲に焼かれたカニの腹に突き刺さり、バイクを降りようとしていた美鈴さんが宙へ投げ出された。
俺はその体を追ってジャンプする。
残った左腕と右の肩口で美鈴さんの体を受け止め、何とか地上へスライディングして無事にキャッチした。
俺は美鈴さんが背中に背負っていた自動小銃を左手で掴むと、カニの腹に向けてフルオートで連射した。
高性能火薬により強化された7.62ミリUSM弾が至近距離からカニの甲羅に穴を穿つ。
すぐに、カニは動きを止めた。
『……あれ、俺って、左腕がサイボーグだったんだっけ?』
『いいえ。清十郎には、生身の方が強度は高いと以前から伝えていたはずですが……』
『確かに、性能確認試験の時におまえはそう言ってたけど……あれって、悪質なジョークじゃなかったのか?』
『ワタシは嘘をつきませんので』
『ウソをつけ!』
とにかく今回も、どうにか生き残った……
「美鈴さん、大丈夫ですか?」
俺の腕の中で、今にも意識を失いそうに力のない笑顔を浮かべて、美鈴さんが答える。
「ありがとうございます。今日は少し張り切り過ぎたみたいです……」
それには全く同感だ。
眼を閉じた美鈴さんをその場に横たえて、俺は立ち上がる。
左腕に小銃を構え、慎重にカニへと近寄る。
レーザー砲に焼かれたカニ肉の香ばしい香りが漂い、空腹を覚えた。
カニも俺のバイクも、完全に息の根が止まっていた。
とりあえず、今日の戦闘は終了だろうか。
俺は美鈴さんの隣に座り込んだ。
考えてみれば、ゴンは俺と一蓮托生だと言っていた。
そして俺と一蓮托生である以上は、自己防衛のために俺の本体の強化を第一に考えるのは当然のことだ。
だから俺が目覚めるまでの8年間という長い時間を、無為に過ごしていたはずがない。
そこまでは、俺にも想像ができていた。
ゴン自身は、機械部分ではなく機械と俺の肉体との接合部分で自分が生まれたのだろう、といつか語っていた。
だが、生まれた場所はそうなのかもしれないが、既にその存在は俺の全身に回っているのだろう。何しろ俺の体液には大量のナノマシンが含まれているというのだから。
そうなると、一番に強化したのは人間の一番弱い部分だ。
頭、首、そして胴。
手足なんぞは後からどうにでもなる。
そもそも、雛祭り侵攻での孤独な戦いの中で、機械部分は次々と傷つき劣化して、最後にはほぼその機能を失った。
だが、それほどのダメージを受けたにもかかわらず、俺の本体は無傷に近かった。
ただ体力が尽きて動けなくなっただけである。
あの過酷な戦いの中で生身の左腕を骨折することもなく、背骨や首を痛め半身不随になるような事故もなく、脳震盪さえ一度も起こさなかった。
それどころか、疲れて息が切れたようなことさえ記憶に残っていない。
それはつまり、俺が考えていた以上に、最初から生身部分が強化されていたということだ。
それをゴンの奴は、8年かけて実行したのではないだろうか。
そう考えると、今のこの状況がどうにか理解できる。
いや、理屈ではそう理解できるのだが、やはり納得はいかない。
『おい、どうするんだよ、これ』
俺は二の腕から先が無くなった右腕をぶらぶらと動かす。
『……』
『ドクターが直してくれたばかりなのに……』
『ドウシマショウカ?』
珍しいことに、ゴンもドクターに遠慮しているらしい。
『てことは、やっぱりこれは、ドクターも知らないということか?』
俺は、無傷の左腕をぐるぐる回す。
「はあ、清十郎さんの手足とお揃いの無敵の肉体を手に入れたと喜んでいたのに、こんなカニにあっさりと斬られてしまうなんて……ものすごくショックなんですけど……」
隣に倒れていた美鈴さんが、突然目をぱっちりと開けて、茫然とした様子で呟いた。
それにしても、普段の美鈴さんであれば、俺のことを心配して蒼い顔をしているだろうに。
この異常な状態が、一体いつまで続くのだろうか。
まさか、このままずっと性格が壊れたままなんてことはないよね?
朝からずっとハイテンションだった美鈴さんの嘆く気持ちも少しはわかるが、もっとショックなのはドクターだろう。
美鈴さんと美玲さんの肉体に起きた劇的な変化だけでも衝撃的な事件だろうが、それに加えて俺の肉体に起きたもっと衝撃的な事件について、ドクターがどう気持ちを整理するのか。
あの偏屈で自信家のドクターのことだから、こんな事実を知ったなら、盛大にへそを曲げるだろう。
それは、後で色々面倒なことになるに決まっている。
確かにこんな場合、ドクターの反応を見て面白がる、というこの世界のセオリー通りに動くのは当然一つのやり方だし、こんな絶好の機会を逃がすつもりもない。
だが、それはそれだ。
その後のことも手配しておかねば……




