二話 生きている確率
ヒスイは、お皿をダークの前に置くと、足早に部屋を出て行った。
ジャックが連行されてからというもの、ダークは夕食のメイン料理を持ってリデル邸に来てくれる。そして、私たちが食べるのを見届けて、食器と共に引き上げていくのだ。
一度、メイフェアにあるナイトレイ伯爵邸との往復が大変ではないかと聞いたら、優しく微笑まれた。
『君たちの元気がなくなると、ジャック君が心配するだろう?』
遠回しな愛情と思いやりが、実にダークらしい。
これに関しては、彼を嫌っているリーズも文句を言わなかった。
(ダークは、どんどんリデル一家に馴染んできているわね)
婚約者の家族と仲良くする努力をしている彼に対して、私の方は何もしていない。
ジャックが無事に戻ってきたら、ダークがしてくれたようにお菓子でも持って、ナイトレイ伯爵邸に出向こう。
ダークには家族はいないけれど、先回りが上手な家令のおじいさんがいる。私の肖像画を撤去したあとに、ナイトレイ一族の額縁を戻すと言っていたから、ダークのご両親の顔を見られるかもしれない。
スコーンを割ると、急に鼻がむずむずした。慌ててナプキンで顔を覆う。
「くしゅん! これ、胡椒入りなのね」
涙目で問いかけると、リーズは自信満々に説明してくれた。
「アタシ特製のセイボリースコーンよ。チーズとベーコンを練り込んで、スパイスで味を調和させているの。臭み消しと言えば胡椒よね。ジャックがいないから、どの材料も思いっきり使ってやったわ!」
「臭み消し、ね……」
私は、胡椒の匂いが充満していたシャロンデイル公爵邸を思い出した。
スコーンにもクッキーにも、チーズのような癖のある材料は使われていなかったのに、胡椒を使うのは不自然だ。
公爵夫人は、公爵が好きだから料理に使っていると説明してくれたが、ダークと私に『何か』を気づかれないために、わざと薫らせていた可能性はないだろうか。
「そういえば、あの赤ちゃん、一度も泣かなかったわね……」
公爵夫人があやし続けていたので顔も見えなかった。息をしていたかどうかは、確認していない。
「ねえ、ダーク。私達が会った赤ちゃんは、生きていたのかしら?」
前世とは異なり、この世界での出生率はものすごく低い。無事に産まれても一歳を迎えられずに亡くなる子どもは約二十%もいる。
子ども専用の小さな棺桶が売られているくらい死は身近なものだ。しかし、生んだ母親の悲しみは、そんな小さな箱に収まるものではないだろう。
ともすれば正気を失って、幸せな幻想のなかで生活してしまう人も存在するのではないだろうか。
「公爵夫人が、赤ちゃんを亡くした事を受け入れられず、抱き締めて離さないとしたらどうかしら。家族みんなで、死臭を胡椒の匂いで隠しているとは考えられない?」
「恐ろしい推測だ。ない、と言い切れないのがね。次にお会いした際に確認しよう……。悪いがこれは下げてくれるかな。しばらく胡椒の匂いは嗅ぎたくない」
「はいはい。軟弱な男ねぇ」
ダークが嫌がるので、リーズはお皿にカバーをかけて、厨房へ運んで行った。
少し経って戻ってきた彼の手には、一通の白い封筒がある。
「お嬢、ちょっといい?」
胡椒の香りが漂ってきて、私は慌ててハンカチを取り出した。
「はっくしゅん! 胡椒の匂いだわ。シャロンデイル公爵家から?」
「ご名答よ。くしゃみが大変そうだから、アタシが開けるわね」
リーズは、バターナイフで器用に封を開けると、白い便箋を引き出した。
「――『プリンセス・アリス号の記念式典についての依頼』ですって。テムズ河で行う進水式で、シャンパンを割る役目をお嬢にやってほしいそうよ」
「遊覧船の事業をついに始められるのね」
ジャックの脱獄で、リデル男爵家には悪い意味で注目が集まっている。
目立つことは極力避けたいが、これは公爵に近づくチャンスだ。
なぜ被害者との関わりを黙っていたのか。
ジャックを見たのは、事件現場の近くではなく酒場ではないか。
そして、公爵夫人が抱いている赤ちゃんの生死はどうか。
問い詰めたい事柄は山ほどある。
「お役目を引き受けましょう。脱獄の件で、いつまでも伏せっていると思われたくないもの。式典用のドレスを用意しなければならないわね」
「ドレスは俺が贈ろう。当日のエスコート役も引き受けるよ」
「そうね……」
名目上の婚約者はダークなので、エスコートは彼に任せるのが自然だ。
私は、進水式に出たことがないので、適したドレスなんて見当も付かない。彼に任せると手間も心配も減る。
だが、私の計算では、今回の適任はリーズだった。
「ごめんなさい、ダーク。エスコートは、リーズにやってもらうわ。シャロンデイル公爵の嘘を暴くために、彼の烙印の能力が必要なの。何が起きるか分からないから、ダークには式典の会場近くに控えていてもらいたいわ。あとは……」
私は、紅茶を一口飲み込んだ。
熱湯で十分に蒸らして淹れたのに、すっかり冷たくなってしまっている。
悩んでも悩まなくても冷めるなら、熱いうちにお腹の中に入れるべきなのだ。何事も。
「有能な判事をご招待したいわ。裁判に必要な証言が得られたときのために」
さっそく手に入れた人脈を活用し出す私を、ダークは愉快そうにたたえた。
「なるほど。呼ばれたら彼は喜ぶだろうね。正義の味方を自称しているくらいだ」
「騙しているようで申し訳なくなるわね」
口ではそう言ったが、私は負い目も引け目も感じていない。
なぜなら、『アリス』には、正義の反対側の『悪役』がお似合いなのだから。




