九話 悪魔とアリスと監視と胡椒
「ごめんなさいって答えたわ。彼は私にとって大切な家族だから、乞われても恋人にはなれないもの」
「そうか」
ダークの瞳から怒りにも似た感情が消えた。
独占欲はありながらも、親愛との分別がついているから、ダークは、ジャックのように暴走しないのだろう。
「ジャック君が、君たちに内緒でイーストエンドに通っていた理由は、だいたい分かった。しかしながら、脱獄してまで渡しに来るとは。思いきったね」
「脱獄はジャックの意思ではないわ。鏡の悪魔に導かれたそうよ」
ジャックがすり抜けた鏡は、私の寝室に繋がっていた。脱獄する気がなくても、牢屋を出るように仕向けられていたのだ。
「殺人現場に残されていたメッセージといい、今回の脱獄の手引きといい、ジャックを狙って破滅させようとしているみたいだわ」
「名前が『ジャック』だったから、では済まされないくらい恣意的だね。どうして番犬君が狙われているのだろう。鏡の悪魔は、切り裂きジャック事件の真犯人と、どういった繋がりがあるのだろう……」
ダークは、ガラス片に混じって散らばるカップの欠片を、ステッキで突く。
青いエリジウムの花は無惨に欠けてしまっている。
「俺をロンドンに引き留めた理由も何なのだろうね。そのおかげでリデル男爵家とは仲良くなれたし、皮肉にも今晩はアリスを助けられたわけだが……。うん?」
自分で言って気になったらしく、ダークは小首を傾げる。
「鏡の悪魔は、ひょっとして俺の恋を応援してくれているのかな?」
「そんなくだらない理由のために、ロンドンを囲む術をかけたというの」
「するかもしれないよ。だって相手は悪魔だ。道理に適っていなくても、そうしたいならそうする。欲しいものを手に入れないと気が済まない衝動は、俺も実感としてあるからね」
青い瞳が怪しく光る。私を見つめる表情は愉しげだ。
こういった顔を見せられると、どれだけ優しい人でも本性は悪魔なのだと思い知らされる。
それを怖いと思わないのが、『アリス』の悪い部分だ。
「……その悪魔は、絶対に見つけ出すわ。ジャックを巻き込んだことについて、土下座を要求しないと気が収まらないもの」
「ドゲザというのは、なんだい?」
「東洋の国の伝統芸能よ。サムライとハラキリの他にも色々あるから、あとで教えてあげるわ」
立ち上がろうとして、私は困った。ベッドに寝ていたところを運ばれて来たので、靴を履いていない。素足で歩こうものならガラス片が突き刺さってしまう。
「ダーク、送ってくださる? リデル男爵邸まで」
「よろこんでお送りするよ、マイレディ。それとも、お姫様の方がいいかな」
ダークは、私をお姫様だっこすると十字架に背を向けて歩き出した。ステンドグラスがはまっていた窓から吹き込む夜風に、私の鼻がむずっとした。
「くしゅん! ……また?」
ふわりと薫った胡椒の匂いに、私は気づき始めていた。
どうやら、胡椒の香りを漂わせている何者かに、監視されているようだと――。




