七話 推しの好きな人
ジャックは私から取り上げたカップを床にたたきつけた。
古い陶器は粉々に砕けて、青い染料で描かれたエリンジウムの花が散らばる。
「婚約話は、薔薇の悪魔を陥れるためだった。それなのに、あいつは眠り姫事件が解決してからもお嬢を恋人扱いした。女王のせいで社交界にも噂が広まった。このままいけば、お嬢は無理やりあいつの花嫁にさせられる。リデル男爵家から奪われる。そんなの見てられるか!」
「落ち着いて、ジャック。私は、リデル男爵家を投げ出して結婚する気はないわ。それはダークも分かってくれているの。男爵位を廃さずにすむ解決方法が見つかるまでは、このままでいようって話し合っているのよ。結婚を強行されそうになっても、私が『誓います』と言わなければいいんだから――」
安心させようとする私を、ジャックが鋭い瞳で見つめてきた。
「本当に、言わないか。ナイトレイがリデル邸に現われると、あんなに嬉しそうな顔をするのに?」
「!」
とっさに私は自分の頬を押えた。家族の前では、ダークへの感情を見せないように努めていたけれど、そんなに表情に出ていただろうか。
ジャックは悔しそうに歯をかみしめる。
「お嬢は、ナイトレイ伯爵が好きなのか?」
「ち、」
違う。そう告げるだけでいいのに、私はどうしてもその一言が言えなかった。
脳裏をかすめるのは、シャロンデイル・ガーデンズのお城で交わした約束だ。
ダークは私を望んでくれた。
重たいリデル一家の歴史を背負う私を、夜のなかでしか上手く生きられない私を、普通の令嬢と同じだと言ってくれた。
真摯な瞳に私だけを映して、たくさんのものを与えてくれるダークを、嫌えるはずがなかった。
何も言えなくなって口を閉じる私に、ジャックはか細い声で明かしていく。
「……オレは、お嬢が死ぬまでリデル男爵家の当主でいてくれると信じていた。お嬢のそばにいられるなら、この想いは封じておこうと決めていた。でも、もう無理だ。ナイトレイと一緒にいるお嬢を見ると、心臓が燃え尽きそうになる。そのたびに、自分の体の内側が焦げる匂いがするんだ。ずっと、ずっと、くるしかった……」
辛そうに吐露したジャックは、私の右手をとってひざまずいた。一途に見上げてくる姿勢は、姫君に忠誠をちかう騎士のようだ。
大人びた表情に戸惑う私に、彼はたった一言、
「好きだ」
と、告げた。
目を見開いて驚いていると、ポケットから取り出した指輪を薬指にはめられる。
星明かりに光るのは、イーストエンドの宝飾店で見たアクロスティックのデザインだ。
並ぶ宝石は、ダイヤモンド、エメラルド、アメジスト、ルビー、エメラルド、サファイア、トルマリン――頭文字をとると『DEAREST《最愛の人》』。
(あ……)
集めてきた情報が一本に繋がって、私はぼう然とする。
ジャックは確かに恋をしていた。
秘密裏に行動していたから、相手は私の知らない誰かだと思っていたけれど、そうではなかった。
彼が自力で指輪を贈りたかった相手は、『アリス』だったのだ。
「っ」
私の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
ジャックから想いを告げられるのが夢だった。ただのプレイヤーだった前世から、ずっと彼は私の推しで、憧れだった。
願いが叶ってこんなに幸せなことはない、はずなのに……。
私の心は、前世のようには、ときめかなかった。
今の私が求めるのは、ジャックではない。
月の光を編み込んだような銀髪に、過剰に装飾した帽子を被らなければ屋敷から出られない、寂しがり屋の悪魔なのだ。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、ジャック……」
私は、彼の手から右手を引き抜いて、泣き顔を両手でおおった。
「私は、あなたが大好きよ。この気持ちは嘘じゃない。だけど、私の心は、もう――」
「ここか」
立て付けの悪い扉を押して、聖堂に一人の男性が入ってきた。
長く伸びる影のてっぺんには尖った角が生えている。
驚いて二度見すると、角のように見えたのは、帽子に巻いたリボンの輪郭だった。
「ナイトレイ……」




