六話 バッドエンドへの逃亡劇
「え?」
ジャックは、ぎゅうっと私の手首をつかんだ。辛そうな表情には影が差している。
「どうしてお嬢は、いつもナイトレイを頼るんだ!」
「その声……。お嬢、開けるわよ!」
怒鳴り声を聞いて寝室に入ってきたリーズは、ジャックを見て眉をひそめた。
「いつの間に、お嬢の部屋に……。お嬢がどんな思いで事件の捜査をしていると思っているのよ。脱獄なんかしたら、自分は凶悪犯だって言っているようなものじゃない」
「違うわ、リーズ。ジャックが牢屋を出たのは――」
フォローしようとしたが、リーズは聞く耳を持たなかった。うんざりした顔で腰に手を当てる。
「これでまた、お嬢はナイトレイ伯爵を頼らないとならないわ。頼れば頼るだけ恩が増えるっていうのに。弱みを握られている状態じゃ、婚約破棄なんてできないわよ」
「ちっ。ほんと、うぜぇ……」
舌打ちしたジャックは、枕元にあったサーベルを引き抜くと、腕を伸ばして私を抱き寄せた。
「きゃっ!?」
「動くな」
私の喉元にサーベルの刃が当てられる。抱きとめる腕の強さがジャックの本気を物語っていて、うかつに抵抗できなかった。
リーズは、子どもの悪戯を見つけた親のように、ジャックの行動に呆れている。
「はぁ? お嬢に何してんのよ。離しなさい」
「言うこと聞くかよ。オレはもう凶悪犯なんだろ。お嬢を傷つけられたくなければ、黙って道を空けろ」
「ジャック? 何言ってんのよ……?」
お説教モードのリーズの顔色が、だんだんと悪くなっていく。
ジャックが本気で私に刃を当てていると気づいた彼は、ピリッと肌が痛むような殺気を放った。
「お嬢に何かしてみなさい。その前に、アンタの首を落とすわ――」
リーズが腰元のベルトに手をかけた、とほぼ同時に、屋敷中に警告用のベルが鳴りひびいた。
敷地に張ってある仕掛けを、到着した警察が乗り越えたのだ。
「行くぞ、お嬢!」
ジャックは私を横抱きにして窓を蹴破り、バルコニーから飛び降りて、噴水のある庭に着地した。私は振り落とされないように彼の首に抱きつく。
「何をするつもりなの、ジャック!?」
「逃げるに決まってる」
ジャックが噴水を囲む石を蹴ると、あふれ出ていた水が割れて、地下へ続く階段が現われた。私も知らない、リデル邸から避難するための隠し通路だった。
「待ちなさい、ジャック!」
リーズがバルコニーから身を乗り出して鎖を投げる。横に飛んで錘を避けたジャックは、階段を駆け下りて壁を蹴った。
すると、天井石が動いて穴を塞いでしまった。
「これで時間が稼げる」
ジャックは私を抱え直すと、灯りのない通路を迷うことなく走って行く。
(早くジャックを止めなくちゃ。今ならまだ、逃亡は不本意だったって説明できるわ)
通路を引き返して、脱獄する意思はなかったとドードー警部に説明して、ジャックの身柄を引き渡す。
ダークに鏡の悪魔の仕業だと相談して、真犯人を見つけ、万全の体制で裁判を迎えるのが、彼の汚名をそそぐための最短ルートだ。だけど。
(もう少しだけ、ジャックと一緒にいたい……)
ジャックが逮捕されてしまって、一番堪えていたのは私自身だった。
こめかみに触れる柔らかな髪も、弾む呼吸も、広い胸も、何もかもが懐かしくて泣きそうになる。
ジャックの肩に頭を預けると、抱きしめる力が強くなった。バッドエンドへの道をひた走っていると理解しながら、私はろくな抵抗もしなかった。
「着いたぞ」
階段をのぼったジャックは、肘で木戸を押し開けた。
急に視界が開けて、私は頭をもたげる。
通路を抜けた先にあったのは、人気のない静謐な空間だった。
木造の天井は高く、床には質素な木のベンチが等間隔で並んでいる。
照明はないが、壇上には十字架が立てられていて、大きなステンドグラスごしに星明かりが降り注いでいた。
「ここは?」
「ロンドンの外れにある、今は使われていない聖堂だ。通ってきた地下通路は昔からの使用人にだけ伝わるもので、オレしか存在を知らない。噴水の仕掛けを開けても、何も知らないで入れば確実に迷う。双子もリーズもここまでは辿り着けないだろう」
ジャックは、私を最前のベンチに座らせると、流水道から新鮮な水を汲んできた。
「お嬢、湧き水だ」
差し出されたカップの水を飲むと目が冴えた。夢の中にいるときのような感傷は鎮まっていき、一気に現実感に襲われる。
「ジャック……。私たち、とんでもないことを仕出かしてしまったわね。ベルに驚いたとしても、リーズを振り切ったのは間違いだったわ。彼は家族なんだから、あなたを悪いようにはしなかった。鏡を通り抜けてきたんだって正直に話せば、どうやって警察に説明すればいいか、一緒に考えてくれたはずだわ」
「あいつを味方にしたところで、あの警部が聞くわけないだろ。それに、もう人任せは嫌だ。他力本願に甘んじていたから、お嬢をあいつに奪われそうになったんだ」
「あいつ?」
「ナイトレイのことだ!」




