四話 胡椒の残り香
内密事項を教えてくれたトレヴァーに、私は両手を重ね合わせて向き直った。
「トレヴァー判事」
「ききき、急にかしこまって。どうされました、アリス様?!」
「折り入ってご相談がありますの。リデル男爵家の使用人が『切り裂きジャック事件』の容疑者として警察に捕まっております。ですが、彼は無実です」
「罪のない人物を逮捕! あってはならないことです。犯罪者でない者を罰してはならない、というのが刑罰の原則ですから。その決まりごとを、よりによって警察がおかしているだなどと……」
トレヴァーはわなわなと震えながら熱弁した。
司法の番人である判事として、ジャックの件は見過ごせないようだ。
「アリス様。僕に協力できることなら、なんなりとおっしゃってください。無罪を勝ち取るために必要だというなら、細いヒールで踏まれることも、裸で通りに転がされることも、やぶさかではありませんっ!」
私の手を握ったトレヴァーは、次の瞬間には「わわわっ」と手を離した。
「すすす、すみません。思わず手を握ってしまいました」
「かまいませんわ。協力の申し出をありがとうございます。警察は、犯行を自白したわけでもないのに、うちの使用人を犯人だと決めつけていますわ。証拠もありません。警察が重んじているのは、シャロンデイル公爵が、事件現場の近くで彼を見たと証言していることだけです」
「被害者の不倫相手である、シャロンデイル公爵の証言をですか。怪しいですね……」
公爵は、被害者と自分の関係を公にはしていないが、ドードー警部も調べはついているはずだ。
それでもジャックを犯人扱いしているということは、再捜査の手間や時間をとりたくないのだろう。
ドードー警部は、一分一秒までこだわる人だ。無駄を省くという点では優秀でも、誤認逮捕を防ぐ視点が欠けていては話にならない。
「私は、シャロンデイル公爵が、事件に深く関わっていると思っています。ですが、容疑者を逮捕している警察は、今さら公爵を疑いはしないでしょう。冤罪が明らかになれば、本物の切り裂きジャックを野放しにしていると、市民からのバッシングは免れませんから。どうか、ジャックを救う方法をお教えください」
真剣にこいねがうと、トレヴァーは真面目に考えてくれた。
「……そうですね。容疑者が有罪かどうかは裁判で決まります。判決は、裁判官と陪審員の合意がなければ下されません。一人でも異論が出れば、全員が納得できるまで話し合われます。有罪に判を押されないように、確固たる証拠を持って法廷に入る。もしくは真犯人を連れて行くのがよろしいかと」
「分かりました」
難しい条件だ。しかしジャックを取り戻す方法が他にないなら、私はどんな困難にも立ち向かってみせる。
「教えてくださって、ありがとうございました」
「いいい、いいえ! 僕に頭を下げないでください。自己嫌悪で死んでしまいたくなりますからっ!」
決意を新たにお辞儀すると、トレヴァーは飛び上がった。
書棚にめり込みそうなほど恐縮した後に、ダムとディーに声をかける。
「天使たち、心配されずとも、ご家族は無事に戻ってこられるでしょう。法と裁判官は正義の味方ですから。何かあったら、ハムステッドに住む判事ビル・トレヴァーを訪ねておいでなさい」
「「はーい」」
双子が声をそろえて返事をすると可愛いと喜んだ。トレヴァーは、子どもが好きなようだ。
女性に対して過敏なのは、接触が少ないがゆえに苦手意識を大きく育ててしまった結果だろう。
社畜キャラのお約束をしっかり守っている……!
トレヴァーを見守っていたダークは、区切りが付いたという顔で言う。
「お別れも済んだようだね。俺達はこの辺でお暇しよう」
「裏口までお送りしまう」
「遠慮しておくよ。君は早く調べ物を終えたまえ。寝不足は体に悪いからね」
上手い言い訳だった。外に出るためには、烙印の能力で姿を消さなくてはならないので、玄関までついてこられると困るのだ。
トレヴァーは、開け放されていた資料室の戸に手をかけた。
「それでは、僕はここで失礼します。ナイトレイ伯爵、アリス様、天使たち、道中くれぐれもお気をつけて。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい、トレヴァー判事」
私は、トレヴァーの横を通って廊下に出る。と、急に鼻がむずっとした。
「くしゅん! ……あれ?」
今、胡椒の匂いがしたような。暗い廊下を振りかえるけれど、部屋に通じる扉はすべて閉じられていて、深く息を吸っても刺激的な香りはしなかった。




