九話 めざといドードー鳥
辺りには、掃除をしていないドブのような匂いが漂っている。
顔をしかめる私に、リーズは物知り顔で説明をくれた。
「この辺りには、皮のなめし場や食肉処理場があるわ。アタシ達が手に入れるのは加工して整えられた物だけれど、それまでの見たくない行程や嗅ぎたくない匂いは、ここの人達が引き受けてくれているのよ。感謝しないとね」
リーズは私の手を引いて、小さな礼拝堂を回り込んだ。
角を二つ曲がった路地裏に出た私は、目のまえの光景に圧倒される。
「これが『切り裂きジャック』の書き置きなのね」
古びた石積みの壁に、黒いインクで文字が乱雑に書かれていた。
『――これは恋を叶えるための殺人である。切り裂きジャック――』
「どう、お嬢。ジャックが書いた文字かしら?」
「うーん。似ているような、違うような……。ジャックは、達筆ではないけれど、ここまで乱雑というわけでもないわ……」
リデル男爵家では、使用人の全てに基本的な教育を施していた。
そのため、ジャックも文字の読み書きはできるが、変に力むのが癖になっていて、上手いとは言えないガタガタした文字を書く。
「便箋と壁に書くのでは環境が違うから、これだけで判断するのは難しいわ」
「そう……。残念だけど仕方がないわね。字が下手なジャックのせいだわ」
肩をすくめるリーズに、現場を取り囲んでいた警官が目をつけた。
「そこのお嬢さんたちー。あんまりジロジロ見ないでくださいね。ここで亡くなった人がいるんですよ」
注意してくる警官に見覚えがあったので、私はボンネットを目深に下ろした。
前の事件でダークに一方的な取り調べを受けていた、なで肩の不憫な若者である。
無言になる私のかわりにリーズが尋ねる。
「これが、殺人犯が残したメッセージなんですの?」
「ええ。最初に見つけた警官は、子どもの悪戯書きだと思ったそうですよ。容疑者が捕まったので、これから消す作業をするんですけど、普通の落書きとは違うので綺麗に消えるかどうか……」
「あの、何が違うんですか?」
私は思わず声を出してしまった。
前世でプレイしたルートでは、精肉業者の男が妻を殺してしまい、通り魔の犯行に見せかけるために白いチョークで書き置きを残した、という筋書きになっていた。
チョークがインクに変わっても、水を掛けてブラシでこすればすぐに落ちそうだが……。
すると警官は、夏になると現われる怪談師みたいに、表情を強ばらせて教えてくれる。
「この文字、血で書かれているんですよ。黒く見えるのは、二名以上の血が混ざり合って凝集反応が起きているからです。……って、通りがかりの人にこんな話をするべきではないですね。すみません」
謝られたが後の祭りだ。
壁を見上げる私の頭から、サーッと血の気が引いていった。
私の背丈より大きな範囲に殴り書きされたメッセージ、その全てが血でできているらしい。しかも二名以上の血で――。
(被害者は一人。では、混ざっているのは誰の血液なの?)
ジャックの包帯が巻かれた手を思い出して、こめかみの辺りがドクドクと鳴った。
同じように考えたらしいリーズは、打ち解けた様子で警官を追及する。
「被害者は一人だって新聞で読みましたわ。どうして報道と違っているんですの?」
「陣頭指揮をとるドードー警部って人が、『被害者を襲ったときに怪我をした犯人の血が混ざっている』って決めつけて、該当するジャックっていう青年を捕まえちゃったんですよ。切り傷からの流血くらいでは、ここまで固まりゃしないってのに。とはいえ、二人目の被害者は見つかっていないから、誰も訂正できないんですよね」
警官は、捕まったジャックが犯人だとは思っていないようだ。警察も一枚岩ではないらしい。私がほっとしたとき、周囲がにわかに騒がしくなった。
なで肩の警官は「うげえ」と嫌そうな顔をする。
「噂をすれば。ドードー警部のお出ましだ」
大通りの方向から、首を前後に揺らして鳥のように歩いてきた警部は、私たちの方をみて足を止めた。
「そこの通行人、何を見ているのですかな」
(まずい!)
私は、ぱっと後ろを向いた。変装しているといっても、事件に関して取り調べまで受けているので、顔を見られれば正体がバレるのは確実だった。
「いやだわ、刑事さん。アタシたちはただの野次馬で――」
リーズが誤魔化そうとするのを、ステッキを差しかけて止める人物がいた。
「こんにちは、ドードー警部」




