一話 迎えの青薔薇
赤と黒の二色が美しいドレスに身をつつんだ私は、足元に気を付けながら馬車をおりた。
見上げると、白亜の宮殿のごとき立派なお屋敷がある。
正面玄関のうえや、庭をかこむアイアン製の門に彫りこまれているのは、細い三日月と十字の星々が組み合わさった珍しい紋章だ。
「ここが、ナイトレイ伯爵邸……」
下調べした所によると、ナイトレイ伯爵は、ウェールズ地方に広大な領地を持つ貴族だ。
一年のほとんどを城で過ごしているが、『社交の季節』の間だけ、ロンドンに滞在している。
(ここでは、どんなイベントが待っているんだろう……)
命を脅かされる出来事は起きないだろうか。
考えると、高いヒールをはいた足が震えた。
進まなくてはならないのに、プレッシャーが錘となって、最初の一歩をはばむ。
どうして足というのは、たまに言うことを聞かなくなるのだろう。
別に『上に下がれ』だとか『下に上れ』なんて、無茶を命じているわけではないのに。
「お嬢、大丈夫?」
いつまでも踏みださない私の顔を、リーズが心配そうに覗きこんだ。
幅広レースを叩きつけた夜会服にストールを巻いた彼の後ろでは、白いタイを結んだジャックが、馬車の戸を閉めながら周囲に目を光らせている。
双子は留守番だ。
といっても休んでいるわけではない。
出払っているうちに屋敷を襲撃されてはかなわないので、戦闘員として残ったのである。
四人がそれぞれの勤めを果たしているのに、彼らをまとめる私がしっかりしなければ面目が立たない。
逃げることは許されないのだ。
たとえ心の奥で、逃げ出したいくらいに怯えていても。
「平気。気を引きしめていきましょう」
口角をあげた私は、門灯のしたで招待客を迎えていたおじいさんに近寄った。
「こんばんは。私は、リデル男爵家のアリスと申します」
「お待ちしておりました、リデル様。どうぞ、こちらを」
おじいさんは、水瓶から抜いた青薔薇を一輪、差しだした。
「主から、招待客のみなさまへプレゼントでございます。お付きの方も、魔法の一夜をお楽しみくださいませ」
手の平を屋敷のおくへ向けられて、私はごくりと喉を鳴らした。
この先は戦場だ。
だからこそ、決して弱味は見せられない。
――リデル男爵家の当主として、ふさわしい威厳を。
「はい。お父さま」
頭の中に響いた声に返しながら、私は足を踏み出した。
† † †
「……拍子抜けだわ」
私は、ほとんど空になったシャンパングラスを手に、招待客の間を歩いていた。
メイン会場である鏡張りの広間は、青薔薇をスーツのボタン穴や髪にさした紳士と淑女であふれていた。
せっせと動き回るウエイターたちは、こぞってウサギ耳やネコ耳のカチューシャを付けている。コスプレイベントに来たみたいだ。
耳には、人々の間で交わされるジョークが。
目には、余興によばれた大道芸人がなげるボールや、婦人が持つ色とりどりの羽根扇が映る。
けれど、どこに目を向けても、主催のナイトレイ伯爵らしき人物が見えない。
顔なじみの貴族に挨拶ついでに聞いたところによると、「お着替え中」らしい。
二十三歳になったばかりだという若い伯爵は、凝ったデザインの衣装を作らせては、盛大にお披露目するのが好きな着道楽なのだという。
「伯爵はとんだ変わりもののようね。ほかの誰かを探そうかな……」
モブ一号攻略の気が萎えてしまった私は、人もまばらな会場の隅で足を止めた。
近くのテーブルには指でつまめる料理が並んでいるが、ずっと気を張っていたせいで食欲がない。
リーズは「眠り姫事件について聞きこみをしてくるわ」と言って護衛を離れたが、先ほど人波の向こうで彼好みの紳士と楽しげに歓談しているのが見えた。
そばに控えるジャックはというと、ピリピリした様子で懐中時計を何度も確認している。
「会場に入ってから、もう二時間もたつぞ。いつまでも主催者が姿を見せないなんておかしい」
「それもそうね」
貴族の夜会というのは、主催する家の質が試される。
会場が整っていなければ財力は不十分。使用人が従順でなければ人望がない。
楽しい一夜のうちに、辛辣なランク付けが行われるのだ。
もしも不備があれば家に汚名がつき、遅くきく毒のように、のちのちの社交に支障をきたす。
そのため、主催者は、にこやかに客を迎え、飲みものの補充を指示し、積極的に会場を回って雰囲気を良くして、帰りまできめ細やかに気をはらうのが一般的だ。
ナイトレイ伯爵も、せめてこの会場にいなければならないはずなのだが。
「そういえば、私は伯爵のお顔を知らないわ」
貴族の娘が社交界デビューするのは、だいたい十三~六歳だ。
今年デビューした『アリス』は、当然ながら華やかな上流階級に染まっていない。
「いっしょに騒げる友達くらいは作るべきかな……」
前世でぼっち気味だった私に、そんなことができるだろうか。
浅く息を吐いたそのとき、広間の中央にいたピエロメイクの芸人が、口から炎を吹き上げた。
周囲の客の「おおっ」とどよめく声にまじって、短い悲鳴があがった。
高く結いあげられた夫人の髪のてっぺんを、焦がしてしまったのだ。
芸人は平謝りだが、夫人はすっかり怒って、会場から出て行ってしまった。
一連のトラブルにざわつく会場を、私は注意深く見回す。
「伯爵らしき人物は出てこないわね」
「オレが探りを入れてくる。あっちのバカが頼りにならないからな」
紳士とべったりなリーズを睨んだジャックは、私に向き直って念をおした。
「何かあったら叫べ。オレも戻るし、リーズもすぐに飛んでくる」
「ええ。ジャック」
私は、テーブルにグラスを置くと、両手で彼の頬に触れた。
「深入りしてはダメよ。無事に戻ってきて」
「心配するな。行ってくる」
ジャックは、あっさり背を向けて、会場を出て行った。
一人になった私は、拳銃を入れたポシェットを手で押さえつつ、壁を背にして立った。
こうしていれば、後ろを取られることなく、会場中を見渡せるからだ。
初めて立ち入る場所。
集まった身元のしれない人々。
どこに危険が潜んでいるか分からない。
鼓動はゆっくりと弾み、気は逆立ち、警戒を怠るなと私に伝えてくる。
なぜなら私は『アリス』。
死にゲーオブザイヤーを冠した、乙女ゲームの主人公なのだから。
「ねえ、あの血のように赤い髪……。ひょっとして、池に落ちて死にかけたっていうご令嬢?」
「!」




