三話 烙印《スティグマ》
リーズの首の動脈を狙って、デザートナイフが押しあてられている。
今にも首をかき斬ろうとしているのは、ミントを飾ったフロマージュの大皿を片手に眉を吊りあげた少年だった。
彼の名はジャック。アリスより二つ年上の十八歳で、柔らかそうな猫っ毛の黒髪をもっている少年だ。
身につけているのは、かっちり仕立てられた執事服だが、黒タイをだらしなく緩めて、燕尾ジャケットは腰元に結ぶという、一流テーラー泣かせの着こなしをしている。
ただの不良と侮るなかれ。
ジャックを攻略する、通称・不良執事ルートは、このゲームで一番の人気を誇る。
乙女は不良に弱いのだ。
正しくは、外見や態度が怖ろしく、周囲から遠ざけられている男性が、主人公にだけは優しい顔を見せるという展開に弱い。
誰にも理解されない彼と、自分だけが通じ合っている。
それを彼も感じていて、心を開いてくれる特別感といったら――!
ジャックの場合は孤立してはいないが、彼が不良になるにいたった個別ストーリーが魅力的だ。
彼のルートは、涙腺が崩壊したと思うほどに泣ける。
前世の私の最推しキャラクターである。
それに私は、『アリス』としても、ジャックを心から信頼していた。
この家には他に使用人がいないので、彼がほとんどの家事を受け持っているのだ。
なぜいないかと言えば、ドズリーの言葉通り。
潰えていたからだ。
つい最近まで――。
「ジャックがそうしたいなら構わなくてよ。でも、アタシが材料でフロマージュってできるの? お嬢は作り方を知っている?」
「チーズ風味のプリンのことだから、ミルクとチーズ、お砂糖でできていると思うわ」
「アタシからじゃ作れないみたいね。残念だったわねぇ、ジャック」
リーズに笑われて、ジャックは苛立たしげにナイフを下ろした。
「そんなこと知ってる。ただでさえ怠いのに、余計なことすんな。うぜぇ」
ジャックはめんどうくさそうに話を切り上げると、皿をテーブルに置いた。
「で、お嬢。その手紙の山はなんだ?」
尋ねられた私は、思わず明後日の方角を見た。
「たいしたものじゃないわ。ちょっとした、ご招待なの」
「招待?」
眉をひそめるジャックに向けて、フォークを置いた双子が声をそろえた。
「「そう! リデル男爵家のアリスお嬢さまと、お近づきになりたいって男の人から!」」
「ダム、ディー。そんな言い方はだめ!」
慌てるが、時すでに遅かった。
ジャックはこめかみに血管を浮き上がらせて、ぎっと歯を噛みしめた。
「どこの馬の骨が、お嬢とイチャイチャしたいって?」
「言ってない。イチャイチャだなんて、一言も言ってないわ――っ!」
ジャックの怒りに呼応して、白手袋をはめた両手が火を噴いた。
あっという間に燃えつきた布のした、両手の甲に浮かびあがったのは、黒い薔薇の紋章だった。
――これは『烙印』だ。
生きとし生ける者は必ず死ぬ。
しかし、その死にざまがあまりに悲劇的だと、通りがかった悪魔が気に入って、よみがえらせてくれることがある。
悪魔から与えられた命では、天国へ昇れないので、つぎに死んだときに地獄へ堕ちる目印として烙印が押されるのだ。
そのため、烙印持ちは『悪魔の子』とも呼ばれる。
禍々《まがまが》しい烙印は、常人離れした能力を宿す。
とはいえ、普通の英国民にとっては、妖精より不確かな与太話でしかない。
烙印の能力を目にする機会がなければ当然だ。
ジャックの烙印は『憎きものを燃やしつくす炎』を生じる。
彼の手から落ちた火の粉が、テーブルの便箋に燃えうつった。
双子の楽しげな悲鳴が響くなか、招待状はメラメラと炎をあげて灰に変わり、皿に積もっていく。
このままでは、屋敷にまでこんがり焼き目が付いてしまいそうだ。
「ジャック、そろそろ落ち着いて」
私は両手を組んで願ったが、彼の耳には聞こえていないようだ。
それを見て、リーズは困りげに頬に手を当てた。
「困ったわね。でも、もうすぐ燃えつきるわよ」
つぎの瞬間、炎は、バースデイケーキの蝋燭を吹いたときのように、ふっとかき消えた。
ジャックの憎い相手――『アリス』への招待状――が、全て灰になったからだ。
「これでは参加できないわね……」
私は、灰の山をふうと吹いた。
細かな粒子が舞い上がり、斜めに差す陽光を反射して、きらきらと光る。
「あら、お嬢? この招待状だけ焼けずに残っているようよ」




