三話 影の急襲
書類を棚に片付けた私は、ふたたび双子の烙印の能力を借りて姿を消し、公文書館を出た。
足音を立てないように大通りまで歩き、辻馬車をつかまえて乗りこむ。
ガタンと大きく揺れて走り出す車両。流れる車窓の景色は、ほとんどが闇一色に塗りこめられている。
まだ電気が普及していないので、前世を思わせる夜景は見えない。
客車には豆電球のひとつもなく、私の姿は夜にまぎれる。
自分を見失う状態に癒やされるのは、私が『アリス』だからだろうか。
肌が暗がりにとけていき、世界との境界がなくなる感覚は、非常灯も点けずに寝入る夜に似ていた。
川向こうのビックベンの大時計は、もうすぐ十二時を指す。
睡魔に負けた双子に膝枕をしながら、私は物思いにふける。
(ジャックは、どこでダークと会ったのかしら)
父が生きていた頃、リデル男爵家に客らしい客は来なかった。ベアのように仕掛けの位置を知っている親戚がたまに顔を見せるくらいだ。
ナイトレイ伯爵とその令息ともあろう方が来訪すれば大騒ぎになって、私も挨拶させられただろうが、そういった記憶はない。
ジャックは、代々リデル男爵家の執事をつとめる一家の息子なので、父の買い物に付き従うことはあっても、ナイトレイ伯爵家に仕えたことはない。
いつどこで縁が出来たのかは、書類を調べてもうかがい知れないことだった。
(それにしても、《《あの》》ダークがね……)
意外だったが、私は『引きこもり』への偏見は持っていない。
人生は人それぞれ。事情もさまざまだ。
長く生きていれば、生き惑って何も見たくなくなる時期もあるだろう。
ざっくり言えば、『アリス』も引きこもっていたようなものである。
幼い頃は、ひとりきりで人形遊びばかりしていた。たまにジャックと話をしたり、メイドとかくれんぼしたりもしたが、ほとんどが家に籠っている人生だった。
『ともだち』と呼べるような相手がいたのは、たった一夏だけ。
相手は、家の事情でリデル邸に預けられた子だった。
頭からすっぽりシーツをかぶって、いつも姿を隠しているくらい気が弱くて、最初は会話さえままならなかった。
名前を教えてくれなかったので、私は『ウサギ』と呼んでいた。
「だけど、あれは絶対にダークじゃないわ……」
断言できるのは、彼が見た目の《《ある点》》で、ダークとは決定的に違ったからだ。
「あの子、どこかで幸せに暮らしているかしら……」
祈るように呟いたそのとき、馬車にガクンと衝撃が走った。
飛び起きた双子は、目をこすりながら窓を見る。
「「なあに?」」
「分からないわ。急に停車したの」
窓に張りついた私は、黒い影が馬車を囲んでいるのを見た。
石炭の煙のように揺らめくそれらは腕を伸ばして、客車と馬をつなぐ引棒を砕く。放たれた馬は逃げだし、御者も悲鳴をあげて飛びおりた。
「あれは、いったい何――?」
「あぶない!」
「かくれて!」
青くなる私を座席に伏せさせた双子は、勇敢にも扉をバンと開けた。
いきおいよく飛び出したダムは、コートの内側に隠していた二本のダガーナイフを抜いて、影に斬りかかった。
ディーは、サスペンダーで背にしょっていた折りたたみ式のボウガンを広げて、車中から狙い撃った。
しかし、影は陽炎のように捕らえどころがない。
刃を立てれば真横にとぎれ、矢で射れば真上に浮かぶ。
「えーい!」
しびれを切らしたダムが、力いっぱいナイフを振り下ろす。すると、影はたちまちに消えて、向こうにあった街路樹の方に刺さってしまった。
ダムは木に足をつけて引っ張るが、深く食いこんだ刃は外れない。
周囲に集まった影の手がするどく伸びるのを見た私は、ディーを押しのけて馬車を飛び降りた。
「やめなさいっ!」




