三話 東から来たたより
朝食の席で泣いた私は、一日いっぱい休息をとることになった。
一部始終を見ていた双子と、ティーポットの茶葉を変えてきたジャックが理由を知りたがったけれど、リーズがうやむやにしてくれた。
「女には時として、誰にも知られずに乗り越えなきゃならない悲しみがあるのよ。お嬢を想うなら、今日は黙っときなさい」
自室にもどった私は、リラックスできるネグリジェ風のワンピースに着替えて、大きなベッドに転がった。
何をするでもなく、ぼんやりとバルコニーの方を眺める。
窓の向こうは晴天の日差し。
白い石でできた手すりと柵に絡みついているのは、地上から伸びる蔦薔薇だ。いくつも蕾をつけているので、じきに花がほころぶだろう。
生の息吹にあふれた外の世界に比べると、私の部屋は夜につながれているように薄暗い。
空気まで薄い気がするのは、ショックで呼吸が浅くなっているせいだろうか。
それとも、惨劇の夜に流れた血が、壁や天井や床から染みだして、空気を重くしているせいだろうか。
(ダークは知らないでしょうね。私の赤い髪や瞳が、こんな風に闇へ溶けこむ色だなんて……)
薄闇のなかで、赤は黒に転じる。
私がどれだけ望もうと、月や星のように輝くことはない。『アリス』がダークにふさわしくないことは、前世から分かっていた。
彼に似合うのは、ティエラのように華やかで愛嬌ある少女だ。
「……なんで、期待なんてしちゃったのかしら」
ベッドから起き上がった私はバルコニーに出た。
このゲームの舞台になっているロンドンは、意外にも日本の札幌より緯度が高い。
春先のいまは、夜着で表にいたら風邪をひいてしまう。
肌寒い風で頭を冷やしたら、すぐに部屋に戻ろう。
私が柵に手をかけて深呼吸していると、庭から「お嬢」と呼ぶ声がした。
見下ろすと、迷路のように入り組んだ垣根のなかに、バケツを持って落ちた花びらを集めるジャックがいた。
なんとなく顔を合わせづらくて身を引く私に、彼は言う。
「逃げないでくれ。今さら何があったんだなんて聞かない。だから、あとで熱い紅茶を持っていってもいいか?」
「紅茶……?」
「ああ。カップに注ぐだけだ。一言も話さなくていい」
どうやらジャックは、私を心配しつつも踏みこまない距離を探っているらしい。
すがるような表情を見せられて、私の心はジンとした。
「……ええ。ちょうどジャックが淹れた紅茶が飲みたいなと思っていたの」
「! すぐに淹れていく!!」
私が頷くと、ジャックは庭を放り出して屋敷のなかへと駆けもどった。
靴の泥を落とし、手を洗ってキッチンに行き、汲んだ水を沸かすのに十五分。
茶器を温め、茶葉をはかってお湯をそそぎ、紅茶を抽出するまでおよそ十分。
手際のいいジャックは、そのあいだにティーフードを並べて、ワゴンでの移動まですませるから、私のもとに顔を見せるのは二十五分後だろう。
それまで暇をつぶそうと、私はサイドチェストにのせたままになっていた手紙の整理をはじめた。
手はじめに、コーンウォール地方にある教会からの手紙を開く。
一般的な貴族とちがって領地を持たないリデル男爵家だが、その代わり各地に罪人を追うための拠点を有している。
この教会もそのうちの一つで、毎年のように寄付という形で心づけを送っていた。
便箋には、『孤児の子どもたちが作ったイースター・ビスケットと、この地方の伝統的な焼き菓子であるコーニッシュ・ロックケーキを送る』と書かれていた。
どちらもうれしい贈り物だ。
私はこれらの焼き菓子に、『トフィー』と呼ばれるイギリス式の練乳飴をかけて食べるのが大好きなのである。
「届いていたら、お茶菓子はこれにしてもらえないかしら?」
部屋を出てキッチンに行くと、中からジャックの怒号がした。
「なんでこんなのがお嬢に送られてくるんだ!?」
「落ち着くんだ、ジャック。教会にいる子どもたちが、善意にそむくような真似をするわけがない! これは何かのまちがいだ!」
「二人とも、どうかしたの?」
私が顔を出すと、怒りで火を噴きそうなジャックと、大きな体を丸めるベアがはっとした。
二人とも、作業台に置いていた木箱を隠そうとする。
これが口論の原因のようだ。
「それは教会から送られてきたお荷物ではなくて?」
「ちがう! 部屋に戻ってろ、お嬢」
「そうだ、アリス。部屋にはおじさんお手製の菓子を山ほどもっていくから!」
「隠さないで見せて」
二人の間をさくように木箱を覗きこむと、中身は悲惨な状態だった。
包み紙がビリビリに破かれ、焼き菓子はすべて割られている。
これだけなら輸送中の事故だと片付けられなくもないが、菓子や包み紙、緩衝材として敷かれた藁までも、真っ赤な液体で汚れていた。
飛沫が飛び散ったさまは、まるで処刑場のようだが、特有の生臭さはない。
「血……ではないわね。これは、赤いインクだわ」
蓋を確認すると、打ち止めていた釘の穴が二重になっている。
「開封したあとがあるわ。誰かが釘を抜いて中身に小細工をしてから、蓋を元通りに打ちつけてこの屋敷に届けたようね。これは送り状かしら?」
木肌に張り付いていた紙を持ち上げた私は、活版印刷で記されたメッセージを読みとった。
「――『命が惜しければナイトレイ伯爵に近づくな』――」
「また伯爵の話なのか。うっっぜえ……」
「伯爵って、どこの伯爵だい?」
歯をかみしめるジャックと困惑するベアをよそに、私はまじまじと文字を観察した。短い英文のなかで、「a」の文字だけがひび割れている。
(ダークと親しくする女性に、わざわざ脅迫状を送りそうな令嬢はごまんといそうだけれど、このタイミングでね……)
私の脳内には、とある人物が浮かび上がった。
だが、まだ《《彼女》》がやったと決まったわけではない。
「確たる証拠が欲しいわね……」
脅迫されたというのに、私の心には怯えも不安もなかった。
むしろ、どくどくと高揚してさえいる。
(泣いているより、ずっと私らしいわ。そうよね『アリス』?)
私は、そんな自分の変化を他人事のように感じながら、おしおきのための一手を練ったのだった。




