† † かなしい記憶 † †
私こと『アリス』には、悲惨な記憶が二つある。
一つは、前世で車に跳ねとばされた瞬間の記憶。
もう一つは、今から数えて三年前。『アリス』に転生してから十三年がたった秋の夜の記憶だ。
大粒の雨が窓をたたく真夜中。
私は、壁燭の灯りを頼りに、うす暗い廊下を走っていた。
「お父さま、お母さま、どこにいらっしゃるのっ!?」
白いネグリジェの裾をからげ、声を枯らして屋敷を探しまわるが、二人の姿はどこにもない。
辺りにはたくさんの使用人が倒れていて、体のしたに黒い水たまりを作っている。鼻をつく鉄のような匂いから、それらが血だとすぐに分かった。
血の濃厚な香りは、雨の湿り気と混じりあって、むかし旅行で訪れたシチリアで嗅いだ潮のようだ。
あちらこちらをめぐった私は、玄関ホールへとつながる階段の踊り場で自分つきのメイドを見つけた。
「ねえ、メアリ。起きて、起きてよ!」
膝をついて揺さぶると、手のひらがぬめりとした。見れば、乾きかけて膠のようになった血がべったりとついている。
ぞっとして、ネグリジェで拭く。
赤く広がる染みは、薔薇の花びらが舞い散ったようにも見えた。
「なにが起きてるの……」
強い不安に襲われて、私は動けなくなった。
沸いてくる涙をぬぐっていると、階下から上がってくる足音がした。
「だれ!?」
「ジャックです、アリスお嬢さま」
私のかたわらに、従僕のジャックがひざまずいた。
寝間着のままでサーベルを握る彼は、小姓として父に仕えていた頃から私の良いお兄さん分の少年だ。
リデル家の使用人は皆、いついかなる状況にも対応できるように、戦闘訓練を受けている。
そのせいか、ジャックも年のわりに冷静に見えたが、私の服についた染みを見るなり動揺を隠せずに瞳をちぢめた。
「お嬢さま、お怪我をなさったのですか?」
「私は無事よ。これはメアリの血なの。彼女は死んでしまったわ……」
メアリと話せなくなったのは悲しい。けれど私は、死体にすがりついていたって、彼女がよみがえらないと知っていた。
「ジャック、お父さまとお母さまがどこにいらっしゃるか知らない?」
「お見かけしておりません」
ジャックは顔を横に振ってから、私の肩に触れた。
「きっと、お二人とも安全な場所においでです。お嬢さまは、オレが命をかけてお守りします。立てますか?」
「うん」
のろりと立ち上がった私は、ジャックに手を引かれて階下へつづく階段へと踏みだす。
名残惜しくメアリを振りかえったとき、視界に黒い影が映りこんだ。
(なにかいる……?)
足をとめて目を凝らすと、影はじょじょに形をあらわした。
上階の暗がりに立っていたのは、大きな大きな人間だった。
身の丈は、私の三倍はありそうだ。
恐怖で感覚がおかしくなっていたのかもしれないが、見上げれば見上げるほど巨大に、闇に塗りこめられた天井まで伸びていくように思われた。
「――お嬢さま?」
振り向いたジャックは、すぐさまサーベルを抜いて一歩まえに出た。
「きさま、そこで何をしている!」
「…………」
ジャックの問いに答えることなく、巨人は階段を下りてくる。
一歩、一歩、段を踏みしめるごとに、ぴちゃり、ぴちゃりと何かが垂れる。
やがてその姿は暗がりを出て、オレンジ色の火に照らされた。
「っ!!」
私は叫び出しそうな口を押さえて戦慄した。
光と影が描き出したのは、筋の張った醜悪な顔立ちだった。
体は、しとどに濡れるほど浴びた血で、真っ赤に染まっている。
聞こえるのは、したたり落ちる血が床で跳ねる音だった。
リデル男爵家に、こんな使用人はいない。
家族でもない。侵入者にちがいなかった。
『……ア、アア、アリス……』
侵入者は、金属を潰すときのような、ひしゃげた声で私を呼んだ。
ぽっかり空いた洞穴の瞳は、ジャックを見もせずに私にだけ注がれている。
(この男、私を狙っているんだわ!)
気づくなり、私はジャックの後ろから飛びだして、階下へ走った。
すると、侵入者はジャックの脇を高速ですりぬけて追ってきた。
「そうよ、こっちに来なさい!」
二段飛ばしでホールに着地した私は、玄関の扉へと《《まっすぐ》》にむかった。
真紅の絨毯のうえを脇目もふらずに進んでいく。
(私が男を引きつけて屋敷の外に出れば、ジャックも、まだ息のある使用人も、お父さまとお母さまも、助かるはず!)
希望の光がみえた、と同時に、足の裏に床を踏みこむ嫌な感触があった。
(仕掛け罠の起動装置だわ!)
囮に夢中になるあまり、忘れていた。
ここを通ってはいけないと、何百回と教えられたのに。
頭上を仰ぐと、何百もの股足をたずさえた重厚なシャンデリアが、私めがけて真っ逆さまに落ちてくる。
――ああ、これからは逃げられない。
「お嬢さまっ!」
走ってきたジャックは、サーベルを投げ捨てた両手で私を抱きしめて覆いかぶさる。
彼の背に、シャンデリアの穂先が触れる。
尖った燭台は、ジャックを難なく貫いて私に届いた。
串刺しにされた二人の体は、割れたガラスに切りきざまれ、重量に押しつぶされる。
その刹那、私の耳元で、ジャックが苦しそうにうめいた。
吐かれた息はひどく甘くて、切なさに胸がうずいた――。
そのあとのことは、よく覚えていない。
ガラスが飛びちる音がしたようにも思うし、侵入者が近寄ってくる足音を聞いたような気もする。
とくに痛みを感じなかったのは、体がこまかく千切れていたからだろう。
首だけになった私は、目を閉じて絶命の息をはいた。
わずかに残る意識は、だくだくと流れる血潮にまみれて、涙の海へと沈んでいく。
(ああ、私、死ぬのね)
観念したそのとき、子猫の声がした。
その鳴き声を、私はどこかで聞いたことがある気がした。




