八話 アリスという舞台装置
ハンプティ卿が毒殺されたレストランは、警察によって封鎖された。
オーナーと料理人が容疑者として拘留され、事件は解決と思われたが、労働者向けの酒場でウミガメもどきスープによる毒中毒が起きた。
さいわい死者は出なかったが、調理場でスープをかき混ぜていた料理人見習いの少年が、見知らぬ紳士に金を握らされてパリスグリーンを混入させたと証言した。
集まった情報では、その紳士が模倣犯なのか真犯人なのか断定はできない。
しかし、ロンドンに再び毒レストラン事件が巻き起こっているのは動かしようのない事実だ。
「アリスの様子は?」
ダークがそう問いかけたのは、リデル男爵邸の厨房である。
千鳥模様のグレーのジャケットにはレースが贅沢に重ねられていて、料理をする気がないのは一目でわかる。
調理台には卵を割ってボウルに入れる双子がいて、エプロンをつけたヒスイが泡だて器と砂糖を持ってスタンバイしている。
おやつに食べるスフレパンケーキを作っているのだ。ダークは見守りである。
「お嬢は部屋にこもりきりだ。捜査に行かなくていいのかと聞いても、首を横に振る」
答えたのは、コンロの準備をするジャックである。
最近、オーブンの火加減を覚えて焼き菓子を焦がすことも少なくなってきた。
得意料理が石のように固いスコーンなのは変わっていないが、ダークの顎の方が鍛えられて最近ではティールームのさっくりしたスコーンでは物足りない。
卵を卵白と卵黄に分けたら、卵白の方に砂糖を投入して泡だて器で白くなるまで混ぜる。
しばらく怪我の心配はないだろうと、ダークは三人から視線を外してジャックを見た。
「アリスは、無実の人を断罪してしまったかもしれないと気に病んでいるんだよ。優しい人だからね。君も自分を責めていないか心配だ」
「はあ? なんでオレが気に病むんだよ」
呆れ顔でジャックは鉄板を引き出した。
生地ができてしまう前に、薄くバターを塗ってなじませておくのだ。
「お嬢が断罪すると言ったらそいつが犯人だ。冤罪だろうが無実だろうが、お嬢が決めたら白でも黒になる。それだけ信じていればいい」
ジャックの竹を割ったような信望にダークは目を見張った。
実際に犯人かどうかはジャックにとってさしたる問題ではない。アリスが犯人だと見定めた相手を鷹のような目で捕え、剣で切り裂き、命をもって償わせる。
リデル一家の従者に何より重要なのは、事実より命令だ。
「君は、何があってもアリスの間違いを認めないと?」
「間違えだと言った奴をオレが斬り捨てれば、お嬢はずっと正しい」
「過激だが……それがリデル一家のシステムなんだね」
ダークなりにリデル男爵家を理解していたつもりだったが甘かった。
(俺は見くびっていたようだ。リデル一家の危険性を)
アリスとジャックたちの繋がりは想像以上に密接だ。
全知全能の神が過ちを犯さないように、リデル一家の当主が決めたことは絶対。
その仕組みに異を唱えれば、どうなるかは目に見えている。
女王蜂を守らない役立たずの蜂は巣を追い出されて餓死する運命だ。
世間がどうだろうと、リデル男爵家にのみ通用する秩序がここにある。
ここまで強固に信仰されているのに、アリスが自信をなくすのはなぜなのか。
彼女にリデル一家の血族とは別の視点が備わっている気がするのは、ダークの気のせいだろうか。
「アリスと外出してきてもいいかな。彼女が間違っていないという証拠を見せてあげたい」
「後にしろよ。もうすぐパンケーキが焼き上がるんだし」
「「へくしっ」」
可愛いくしゃみに振り向くと、ヒスイがボウルではなく双子の頭の上に小麦粉を振りかけていた。
「テがスベッタ!」
黄色い頭には雪のように粉が積もる。
ダムとディーがくしゃみをすると、粉は厨房中に飛び散った。
ダークのジャケットにも飛んできて白いシミを作る。掃除が大変そうだ。
手のかかった衣装が汚れるのを心配したジャックは、ほうきを握ったのと逆の手で外を指さした。
「……ナイトレイ、お嬢を連れていってこい。この調子だとお茶まで三時間はかかる」




