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【翻訳英語版③巻発売】悪役アリス  作者: 来栖千依
第二章 ウミガメもどきの怪事件

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ニ話 卵は二度と戻らない

 リデル男爵家の敷地の外で馬車を降りた私たちは、緩やかな坂を上ってアイアン製の門をくぐり、蔦薔薇に覆われたリデル男爵邸へ入る。


 その時、白銀の馬車が猛然とロータリーへ駆け込んできた。

 月と星の紋章が輝くナイトレイ伯爵家の馬車である。


(今日もお茶をしにきたのね)


 ダークは散歩するような気軽さで我が家を訪問してくるのだ。

 戸口の外で待っていると、ダークは馭者が踏み台を設置するのを待ちきれずに飛び降りてきた。


「アリス、大変だ。ハンプティ卿が亡くなった」


 突然の訃報に、ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。


「ハンプティ卿が……」


 口に出しても信じられない。


 卵のようにまんまるの顔で笑うハンプティ卿は、優しくて親切で温かな人だった。

 リデル男爵家の裏家業についても理解があって、父が生きていた頃は家族ぐるみで懇意にしていた。ときおり屋敷にやってきては、ご挨拶する私を可愛がってくださった。


 私が男爵家を復活させるために力を貸してほしいとお願いしに行った時も、よくぞ生きていてくれたと涙を流して抱きしめてくれた。

 上流階級に顔見知りは何人かいたが、そんな人は彼だけだった。


「卿はお年こそ召していたけれどお元気だったはずよ。どうして亡くなったの?」

「それは……」


 ダークは言いづらそうに言葉を切った。私は彼に詰め寄る。


「教えて。どんな内容でも平気よ」

「……殺人のようだ。毒を盛られたらしい」


「毒」


 残酷な言葉に血の気が引く。

 いつの時代も王侯貴族をおびやかしてきた毒。ハンプティ卿も十分に警戒していたはずだ。しかし、現実は無常に彼を天国へ連れ去った。


 ハンプティ卿がこの世のどこを探してもいないと思うと悲しい。

 それなのに、こめかみの辺りが熱くなっていく。

 流れる血はドクドクと脈打って、脱力した体の隅々まで情熱を行き渡らせようとする。

 

 ――許せないだろう。犯人を見つけ出して殺せ。


 脳髄の奥から、リデル家の当主たちの声がする。

 彼らは喜んでいる。新たな事件の予感を。


(どうして昂るの。亡くなったのはお世話になったハンプティ卿なのよ)


 大切な人の訃報を聞いて高揚するなんて、人間としてどうかしている。

 両手を胸に当てて、騒ぐ血を押さえようとする。

 力を籠めたら息が吸えなくなって、あえいでいる間に視界がぐらっと回った。


「あ……」


 傾く私を、後ろから伸びてきた手が抱きとめた。


「お嬢、大丈夫?」


 私を支えてくれたのはリーズだった。

 ちょうど買い物から帰ってきたようで、腕にはショップバッグがかかっていた。春服だろうか。そろそろパリの流行がこちらに渡ってくる頃だ。


 リーズは私をひょいと横抱きにすると、立ち尽くしていたダークとジャックを注意する。


「二人も男がいて何やっているの。お嬢はアタシが部屋に連れていくわ」


 ツカツカと屋敷に入ったリーズは、罠の起動装置を避けて二階に進んでいく。

 私を抱く手は力強くて安心して身を預けられた。


「ありがとう、リーズ……」

「ゆっくり休んで。ハンプティ卿のことは、お葬式の連絡が来たら考えましょう」


 どうして、リーズはハンプティ卿が亡くなったと知っているのだろう。

 情報通のダークでも、先ほど知ったような口ぶりだったのに――


(だめだわ。何も考えられない)


 悲しみに囚われた私では、思考の海に飛び込んだところで溺れてしまう。

 最近は特に集中するのが難しい。

 よく眠くなったりめまいに襲われたりするのだ。


 考えるのは一度眠って、胸にわき上がった悲しみを整理してからにしよう。

 感情を箱に詰めてあるべき場所に収めれば、どんな苦しい現実だって乗り越えられる。


「おやすみなさい」


 そう言って意識を手放そうとしたら、目蓋の上にキスされた。

 高熱をあげた子どもに母親がするような優しい触れ方で。


「おやすみ、お嬢。きっといい夢が見られるわ」


 誘導するような囁き声を頼りに、私は眠りへと落ちていった。

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