† † ウミガメもどきのスープ † †
金の燭台を置いた長い食卓の端で、ハンプティ卿はこっくり煮込んだ肉料理を楽しんでいた。
個室で気が抜けているのか、ナフキンは膝元ではなく首に巻いている。
ヴィクトリア女王や他の貴族が列席する晩餐会であったら、毎年の社交シーズンに合わせて新調する礼装でめかし込むが、今日は気安い場なのでツイードの上下だ。
「たまには外食もいいものだ。年を取るとついこもりがちで素晴らしい店があっても気づけない。教えてくれて感謝するぞ、リヒト君」
「卿に褒められるとは光栄です」
返事をしたのは、卿の対角でワインを揺らしている若者だった。
聖母を思わせるような柔らかな表情と、丁寧な手つきに目が吸い寄せられる。
部屋は決して明るいと言えないのに、長めの金髪は後光を受けているように光り、右目につけた黒革の眼帯も艶めいていた。
眼帯には、ハート、スペード、ダイヤ、クローバーの四つのスートが象嵌されていた。トランプとはふざけたデザインだが、リヒトがつけていると様になる。
恐らく、リヒトの存在がそう感じさせているのだろう。
彼は全知全能の神が作りたもうたような美の化身である。
並みの人間であれば、視界に入っただけで息をのみ、膝から崩れ落ち、その姿を崇めるに違いない。
卿もまた、リヒトの姿にあてられて、ほうと息を吐いた。
「君は本当に美しいな。昼間、屋敷にやってきたナイトレイ伯爵も相当な美形だが、君の容姿とは比べ物にならない。あの方がおそばに置きたがるわけだ」
「ナイトレイ伯爵とはどんなお話をされたのですか?」
「例の結婚話だ。アリス・リデルを娶りたいが、リデル男爵家を潰したくないと無茶を言っている」
少女当主アリスは自らを貴族と信じているが、実際のところ爵位は彼女の家にはない。
一家惨殺の憂き目にあったリデル男爵家は、女王の恩情で爵位保留という曖昧な形になった。
アリスという哀れな少女を、これ以上、不幸にしないための措置である。
「儂はアリスの父に恩義があるので再興に協力したが、いい結婚相手が見つかったなら男爵位に固執する必要はあるまい。二百年前ならいざ知らず、警察組織が機能しているこの時代に裏社会の監視人のような役職は必要ない」
卿が語っている間に、食べ終えた皿が下げられて別の料理が運ばれてきた。
コース料理の順番なら次はデザートだが、運ばれてきたのは緑っぽい色あいのスープと素朴なパンだった。
「今さらスープか? まあいい。もう少し食べたいと思っていた」
「この店の看板料理である『ウミガメもどきのスープ』だそうですよ」
「ウミガメもどき! 本物を食べられない貧乏人の発明品だ」
卿は、揺れる水面を見つめて卑しく笑った。
高価なウミガメを使ったスープは大変美味しいが、一般市民はなかなか手が届かないため、子牛の頭を煮出したスープをウミガメもどきのスープと呼んで食べるのだ。
海藻の匂いがするから、この緑色は海由来の何かだろう。
肥え太った手でスプーンを握り、スープに沈めて引き上げる。
とろみがついた一口分のスープは、ぷるぷると震えた。
そのまま口に運び、音を立てずに飲み込む。
「んん、意外と美味いじゃないか。本物のウミガメとは味が違うが、これも悪くない」
どんどん食べ進める卿をリヒトは穏やかに見つめて、
「卿」
すべて飲み干したのを見計らってワイングラスを置いた。
「ナイトレイ伯爵に言っていただけたでしょうか。アリス・リデルを諦めるようにと」
「伝えたとも。しかし、ナイトレイは頑なだった。若造にしては物分かりがいいと思っていたのだが色恋が絡むとだめだな。哀れになって、リデル男爵家の血筋を調べ直すように伝えた」
「説得できなかったのですね。……使えないな」
リヒトの声から温度が消えた。卿は不審に思って顔を上げる。
「貴様、今なんと――うっ」
突然、胸が痛んだ。飲み込んだものがせり上がってきて、げほっと吐き出す。
口元を押さえた手を見れば真っ赤に染まっている。血だ。
「まさか、毒か!? げほっ、げほっっ!」
卿は、激しく咳き込んで椅子から転げ落ちた。
ヒュウヒュウと苦しそうに喉を鳴らし、血走った目をぐるりと回すと、のんきにワインを口に含むリヒトが映った。
「なぜ儂に毒を……」
「貴方があの方の願いを無下にしたからですよ」
リヒトは、上等なエメラルドのように鮮やかな左目を輝かせて、卿の死にざまを観察する。
「我ら『トランプ』は裏切り者を決して許しません。ですが、安心してください。貴方が向かうのは業火の向こうではなく天国の門ですよ。ああ、そうだ。祝福をあげましょう」
リヒトは長い指で自分の唇に触れて、卿の方へ投げるように腕を動かす。
キスを飛ばしたつもりらしい。
ちょうどそれが届いた頃に、卿はゲボッと大量の血を吐いて事切れた。
肥えた体が動かなくなったのを見届けて、リヒトは食卓に肘をついて手を組む。
「天にまします我らが神よ。どうか、この愚かな魂を悪魔の手の届かない場所へお導きください」




