二話 こんなオタク知らない
「うわっ!?」
人がいるとは思っていなかったらしく、女はビクッと体を跳ねさせた。
その拍子に、短い階段を踏み外して私の足元へと落ちてくる。
ガス燈のない路地では足下が見えにくい。
突然、階段が現れたら踏み外すのは当然だ。
油断大敵よと思いながら、私は女が落とした革袋を拾い上げた。
手を差し入れると、ひんやりした塊に指先が触れる。
(これね)
取り出した物を曇った夜空にかざす。
手のひらほどの大きさのダイヤモンドだった。多面カットが施されていてキラキラと光を乱反射する。少し青みがかって見えるのは夜闇のせいではない。
「こんなに大きなブルーダイヤは見たことがないわ。それもそうよね。これまでずっと、銀行の大金庫で眠っていたんだもの。年明けから博物館や高級宝飾店での窃盗を繰り返してきた、怪盗オイランが狙う獲物にしては十分だわ」
「お前、どうしてその名を!?」
女は慄いたが、オイランというのは彼女の本名ではない。遊女の階級である『花魁』からとったコードネームだ。
この女は、かつて義賊ゴエモンの部下だった泥棒である。
どうしてリデル男爵家が泥棒を追っていたかというと、私がロンドンを離れている間にやたらと窃盗が増えたからだ。
凶悪事件が起きなかったのは幸いだけど、犯罪の数が数だったので見せしめのために特に被害額が多い犯人を見つけ出すことにした。
それで候補に挙がったのが怪盗オイラン。
桜柄の着物を羽織り、かんざしを挿した小柄な女だ――重要なタレコミは義賊ゴエモンの配下衆からもたらされた。
彼女はもともと彼らの仲間だったが、活動方針が合わなくて喧嘩別れしたらしい。
よくあるわよね。音楽性の違いで解散するバンドとか、途中で漫画家が仕事を下りちゃうコミカライズとか。犯罪組織も人間関係が大事ってことだ。
「貴女はゴエモンの手下だったんでしょう。正義の盗賊にあるまじき欲深い女だったと元お仲間がご立腹よ。素直に罪を認めて自首するなら、断罪はよしてあげましょう」
精いっぱいの手心を加えて、天使みたいに微笑んであげる。
被害額が多いとはいえ、人殺しをしたわけでも放火したわけでもない人間に地獄の門をくぐらせる必要はない。
オイランに自首してもらって、裏社会にリデル一家が介入したという噂が流れれば、それだけで他の泥棒も犯行を止めるはずだ。
「偉そうに何言ってやがる!」
降参しろと命じる私に、オイランは腹を立てて怒鳴り返してきた。
しかし、路地裏の闇に目が慣れると、ぽかんと口を開けた。
「その服装にその容姿、お前もしかして『暗躍令嬢アリス』かっ!?」
「暗躍令嬢……とは?」
はて、と首を斜め四十五度に傾げる私に、オイランは興奮気味に話しかけてくる。
「ロンドン・ウィークリー紙の連載小説のことさ! 黒いエプロンドレスを着てハートのポシェットを下げた赤い髪の男爵令嬢アリスが、夜な夜なロンドンに繰り出して凶悪事件を解決していく愉快・痛快・探偵物語! お前は、それを読んでアリスの真似をしてるんだろ? まさか同じ作品のファンに会えるとは思ってなかったぜ!!」
無理やり手を掴まれてブンブンと振られる。オイランはニッコニコだけど、私は炭酸が抜けたコーラみたいに味気ない顔をしていた。
(どういうことなの)
リデル男爵家が裏から大英帝国の平和を守っていることは、ヴィクトリア女王などごく一部の者しか知らない。
黒いエプロンドレスで真夜中のロンドンを闊歩する赤髪の男爵令嬢、しかも名前がアリスとくれば私以外にはありえないんだけど……。
「お嬢、どうした!」
困惑する私のもとへジャックと双子が駆けつけた。
彼らは銀行の正面で、怪盗オイランを待ちかまえていたのだ。
ジャックは腰に巻いた燕尾服をたなびかせながら剣を抜いた。
黄色い髪の毛を揺らすダムとディーの武器はダガーとボウガンで、俊足をいかしてジャックの前に飛び出た。
「「アリスから離れて!」」
オイランは自分を狙い定める彼らを見て焦ると思いきや、明るい表情で手を叩く。
「アリスのお供もいるじゃねえか。黒髪のジャグと双子のダンとデーにそっくりだ!」
「だれ?」
「どれ?」
きょとんと立ち止まったトゥイードルズの後ろで、ジャックも苦い顔だ。
「なんだこいつ。お嬢の知り合いか?」
「こんなオタク知らないわっ!」




