一話 真夜中は稼ぎどき
「――はっ!」
目覚めると、私は真夜中のロンドンに立っていた。
辺りには霧が立ち込め、ゾクゾクッと体の奥底から冷えが伝ってくる。
「寒すぎて眠ってしまったみたいね」
冬山で遭難する映画に『眠ったら死ぬぞ!』と仲間に叩き起こされるシーンがあるけれど、今の私も同じ状況だったみたい。
一月の大英帝国は寒い。大雪の降らないロンドンだが気温は低く、街角にいるだけで凍死してしまいそうだ。
銀行や取引所が立ち並ぶ地区は、夜が更けると人の気配が消える。
暗いなか、垂直に建てられた灰色の壁に囲まれていると、冷凍ケースに閉じ込められたような気分になる。
(寒い寒いと思っていたら、さらに温度が下がった気がするわ)
ぶるっと身震いした私は、両手を突っ込んだ防寒用のマフを引き寄せた。
吐いた息は真っ白だ。それもすぐに霧にまぎれてしまう。
冬に濃い霧が発生するヴィクトリア朝のロンドンは、『霧の都』と呼ばれていた。
現代人からするとロマンチックな名前だけれど、その正体は蒸気機関車や東部の工場で燃やされた石炭の煙。
ゆえに霧は黒く、深刻な大気汚染で健康被害が多発したという。
しかし、私が立つロンドンは清涼な白い霧で満ちている。
なぜなら、ここは現実ではないから。
ヴィクトリア朝を舞台にした乙女ゲーム『悪役アリス』の世界なのだ。
ゲームなのでご都合主義な部分も多くある。
たとえば環境問題。汚水や悪臭に悩まされる状況で恋にうつつを抜かすのは難しい。乙女が安心安全にロマンスを楽しめるように、汚い要素はだいぶ割愛されているのだ。
健康被害を心配する環境だと、プレイヤーも恋愛どころではないじゃない?
大好きなキャラクターとデートしても、空気が煤臭かったら台無しなので、この辺りのさじ加減は製作者GJと言っておこう。
(そういえば、さっき見た夢は何だったのかしら)
目の前に私がいた気がする。
真っ赤な髪で、エプロンドレスを着ていて、ポシェットまで同じ物を下げていた。
現実にはそんなこと起こるわけないのに。
夢って不思議だ。起きてすぐは心臓がバクバクするくらい衝撃的なのに、一分もすると見た光景はふわふわに薄れていく。
草むらから飛び出してきた白いウサギが、いきなりウサギ穴に飛び込んで目の前から消えてしまうみたいに、本当に起きたことなのか妄想だったのか確かめる術はない。
(夢みたいなことなら最近あったけれど)
幸せな日々を思い出すと自然と頬が緩んでしまう。
私とリデル一家の面々は、公現祭の一月六日頃までナイトレイ伯爵領でゆっくり休暇を楽しんだ。
十二月二十五日からこの日までが英国のクリスマスシーズンで、家族で寄り添って穏やかに新年の喜びを味わうのだ。
五日の夜までにツリーやデコレーションを片付けて日常へと戻る。そういう意味では、前世で暮らしていた日本の鏡開きに近いかもしれない。
伯爵家の十二夜ケーキは見たこともないくらい大きくて、双子が大興奮していた。
中に忍ばせた銀製の指ぬきを当てようと頑張っていたけれど、結局、引き当てたのは一番やる気のないリーズだった。
(その後のリーズったら、今日の主役は自分だからと伯爵家秘蔵のワインを開けさせたんだったわね)
傍若無人な女王様みたいに振る舞うリーズ。呆れるジャックと背伸びしてワインを飲みたがる双子、それを必死に止める私に、大笑いするダーク。
普通の家族のように休暇を過ごしたのは、リデル男爵家が薔薇の悪魔によって殲滅させられ、私――アリス・リデルが死んだ前年以来だ。
あれから何年?
指を折って数を数えていると、銀行の裏の戸が勢いよく開け放たれた。
けたたましいベルの音が路地裏に響き渡り、続けて派手な桜柄の羽織に袖を通した女が転がり出てくる。
ゆがんだ金髪のシニヨンには鼈甲のかんざしを挿していたが、絶妙に似合っていないところはフランスの画家クロード・モネが描いた『ラ・ジャポネーズ』みたい。
「あの警備人どもやってくれたな!」
女は、戸口を振り返って中指を立てた。まあ、お下品。
心のなかで呆れつつ、私は赤い唇で弧を描く。第一印象は表情で決まるのよ。
「こんばんは、お姉様」




