四話 怪物を喰った悪魔
深夜、松明が消えた芝生広場に向かって、ロビンスは歩いていた。
ハロウィンを楽しんだ生徒たちは夢の中だ。よほど大きな物音を立てない限り気づかれないが用心に越したことはない。
闇に溶け込むような黒色のローブをかきあわせ、気配を消して進む。
林檎食い競争のスタンドには、五個の実が吊り下げられたままになっていた。
ロビンスはほっとする。生徒が触れてしまわなくてよかった。
今晩中に、安全な方法で処分しなければならない。
マンチニールの毒素は降る雨にすら溶けだし、燃やせば煙に乗って広がる。
安全な方法は海に投げ捨てるか、食べても平気な者が食べてしまうことだ。
スタンドの下に立ち、実を手で引き寄せて、大きな口で飲み込もうとすると。
「立ち食いはお行儀が悪くてよ?」
背後から聞こえた女性の声に、鼓動が跳ねた。
アーク校に入学できるのは男子のみ。教師も校務員も老人ばかりのこの島で、薔薇のように瑞々しくも華やかなソプラノを操るのは、ただ一人だ。
ロビンスは、実から手を放して、のっそりと振り向く。
ベンチに腰かけてこちらを観察していたのは、波打つ赤い髪を夜風に揺らしたアリス・リデル――そう、私だった。
革の手袋をはめた手で、齧った跡のあるマンチニールの実を持っている姿は、おぞましくも不気味だろう。
しかし、ロビンスは昼間の彼と何ら変わらず、無邪気に笑ってみせる。
「食べようとか思ってないよ。本物の林檎かどうか、匂いを嗅いで確かめていただけ。もう消灯時間だ。チャールズに怒られる前にライオン寮へ戻った方がいい」
「ご心配なく。門限が怖くてせっかく見つけた標的を見逃したら、アーク校始まって以来の愚者になってしまいますわ」
「標的って、何のことか分からないよ」
「とぼけないで。あなた、悪魔なのでしょう?」
ロビンスの体が強張った。
顔は暗がりでも分かるほど青ざめて、こめかみを汗が伝う。
「……おれは悪魔じゃない。よく見てよ。どこから見ても人間だよ!」
「認めないのね。いいでしょう」
立ち上がった私は、制服をつまみ上げてお辞儀した。
スカートは、布をたっぷり使っているので左右に大きく広がる。
「目には目をとは言いませんが、不遇なおもてなしには相応の報復をいたしますわ」
突然、スカートの左側を押しのけて、黒い塊が突進してきた。
くるんと丸まった黄色い髪を揺らし、二本のダガーで斬りかかってきたのは、ライオン寮で眠っているはずのダムだった。
振り下ろされた刃を、ロビンスはとっさに素手で受け止める。
さくりと手のひらが切れて、手首に血が伝った。
「ぐっ」
顔をしかめた瞬間、体にドッと衝撃が走った。
視線を下げると、右の胸に矢が刺さっている。
「どうして、こんなものが……」
見れば、アリスのスカートの右側を押しのけて片膝をついたディーが、ボウガンを構えていた。
ディーは素早く矢を装填して片目をつむり、次々に撃ってくる。
放たれた矢は、ロビンスの右上腕に、左のすねに、右の太ももに、左の甲に突き刺さった。撃たれるたびに衝撃で体が後ろにぶれる。
「やっ! やめ、てっ」
「「どうして騙したの?」」
ダムは、受け止められたのとは逆の手で、ロビンスの首を貫いた。
『あぁあああ!』
ロビンスの体は影へと変化し、発酵させたパン生地みたいにふくれ上がった。
膨らむのに合わせて、刺さっていた矢は抜け落ち、血は蒸発して消える。
ぐねぐねと形を変える体。
やがて、下半身はたくましいライオンへ。上半身には羽根が生え、大きな嘴が現れ、背中を突き破るように翼がメリメリと伸びた。
ロビンスの変貌を眺める私は、口の端が歪むのを止められない。
「やっと捕まえたわよ。悪魔グリフォン」
完成したのは、あの晩、私たちを襲ってきた怪物だった。
右の翼が破けているのは、チャールズを雷から守ったせいだろう。先日は気づかなかったが、首にはロビンスが付けていた物とよく似た首輪があった。
すっかり変貌したロビンスは、太い嘴を動かしていつもより太い声を響かせた。
『よくおれの正体が分かったね』
「あなたがマンチニールの欠片を飲みこまなければ気づけなかったわ」
念のため、生徒が寝静まってから試合会場をくまなく探したが、ロビンスが齧った実の欠片はどこにも落ちていなかった。
「マンチニールの果実を飲みこんだら、白雪姫のように死に瀕してもおかしくなかった。けれどあなたは、自分の足で歩けるくらい元気だったわ。それで気づいたの。あなたは人間ではない。この島にいるという伝説の怪物ではないかと」
独自に怪物について調べていたチャールズが、悪魔グリフォンにたどり着くための道標となってくれた。
ロビンスはガクンとその場に伏せた。曲がった嘴が地面にぶつかる。
『吐き出すところまで頭が回らなかった……。もしもみんながこの実を食べたら大変だと思って、守ることしか考えられなかったんだよ』
「助けてくださってありがとう。あなたは、グリフォンの姿で何度も生徒を助けているそうね。悪魔ではあっても悪者ではないという前提で、自己紹介させていただくわ」
私は並んで立っていたダムとディーに視線を送った。
「僕はダム。アリスの左腕」
「僕はディー。アリスの右腕」
「彼らは私、リデル男爵家当主の護衛です。私たちは陰ながらこの国の秩序を維持する非合法一家。アーク校にはダムとディーを入学させるためにやってきましたが、体の成長をめちゃくちゃにされて困っておりますの。休憩所の食べ物に術をかけたのはあなた?」
『……ごめんね。そうしないとみんなを守れなかったんだ』
ロビンスは翼を折りたたんで、嘴を私の方へ向けた。
表情は読み取れないが、しょんぼりしているのを感じる。
『おれ、命令されてたんだ。次の支配人候補の貴族を殺せって。港で船に乗るアリスちゃんたちを見つけたんだけど、若い人ばかりで誰がその貴族か分かんなかった。何もしないまま学校に到着すると、あの人たちが自ら手を下す。命を守るには、名乗り出られない状態にするしかなかったんだ』
ロビンスは、大急ぎで島に戻り、年齢操作の術をかけた食べ物を用意したという。
(私が船の上で見かけた大きな鳥はロビンスさんだったのね)
ドリンクとケーキ、どちらを口にしても変異は起こる。
大人はアーク校に生徒として紛れ込める年齢に退化し、子どもは自分で身を守れる年齢に成長する術なのだ。
ダークとジャックが新入生くらいに、ダムとディーが最終学年ぐらいになったのにも、ちゃんと理由があったらしい。
「やってくる貴族を殺せと命令したのは、キャタピラ校長ですか?」
『うん。おれ、あの人には逆らえないんだ。契約書を持っているから』
初代の城主と契約を交わして、彼のために働いた悪魔グリフォンは、その死後も城にとどまり続けた。
契約書を引き継いだ子孫が、守り神として大切に扱っていたのである。
グリフォンは人間が大好きで、島民にも愛された。島には豊かな自然があり、自由に飛べる空もある。天国に来たかのように幸せだったと、ロビンスは語った。
しかし、飢饉と疫病で城主一族と多くの島民が亡くなった。
新たに城の所有者になったのは、城主の遠縁というだけの、名前も聞いたことのない貧乏人だった。彼は一度も島に来ないまま、怪物がいるという噂を聞きつけて接触してきたキャタピラに売った。
部下を連れて城へやってきたキャタピラは、人間が亡くなって悲しんでいたグリフォンを見つけると、自分が新しい契約者になると申し出た。
当時を思い出して、ロビンスは金色の瞳を揺らす。
『誘いにのったのが運の尽きだったよ。相手は悪魔の研究者だったんだ。おれは悪魔や地獄について知っていることを全て吐かされた。悪魔学の授業で使っている教科書や模型はその話を元に作られているんだ。あの人たちは研究を続けるために学校を作って、生徒を使い捨てるように鞭で打って、どんどん年老いていった』
加齢には勝てず、寝たきりとなったキャタピラは、訪れる死を恐れた。
そして、契約書を盾にグリフォンに命じたのだ。
――我らの体の年齢を止め、永遠に生き永らえさせよ。
死は全ての生物に訪れる。
それが自然の理なのに、それ以上を願った人間の愚かさに私は唇を噛んだ。
『おれはそんなの駄目だって思った。でも、契約書の持ち主には反抗できない。先生たちの体の時間を止めて、元気になるように生気を与えて、彼らの生活の手助けをするようになった。もう悪魔の情報は出し尽くしたからね』
グリフォンは人間に化け、生徒や島民の一人として振舞った。誰が呼びはじめたのか、人間の姿を取っている間は『ロビンス』という名前で通じた。
不死者は、ロビンスの献身によって維持されていたのだ。
「悪魔にとって、契約書というのはそんなに拘束力が強いものなのですか?」
『普通は契約した人間が死んだら無効になるんだけど、おれの契約は城主の子孫が代々引き継ぐって条件だったんだ。契約書が消えてしまわない限り奴隷みたいなものだよ』
悲哀に満ちた声でロビンスは漏らした。
ならず者に契約書が渡ってから、ロビンスにとってこの島は天国ではなく地獄へと変わった。
「それなら、契約書を解消すればいい」
後方のテントからステッキをついて現れたのは、鹿の角を飾ったトップハットを片手で支えるダークだった。
セーターの腰元に鎖を巻いたリーズ、サーベルを持つジャックも連なっている。
「俺にも自己紹介させてくれ。改めて、はじめましてグリフォン。俺はダーク・アーランド・ナイトレイ伯爵だ」
ダークは掲げたステッキから光を放って、空中に三日月と星の紋章を描き出した。
青白く輝く紋章を見て、ロビンスはぽかんと嘴を開けた。
『星月紋は、かなり上位の悪魔だったはず……。ダークがナイトレイ伯爵で、しかも悪魔だったの?』
「そういうことだ。君が術で年齢を変えてくれなければ俺は殺されていただろう。キャタピラ校長に握られている契約書を消す手助けをする。ここにいる彼らと一緒にね」
『ダークが味方になってくれるのは助かるよ。でも、この子たちはただの人間だ。あの人たちに逆らうなんて危ない』
かぶりを振るロビンスに、ダムとディーは念押しした。
「「ただのじゃない」」
「リデル一家を見くびってんじゃねえ」
「アタシたち、こう見えてすごいのよ」
ダムとディーの泣き黒子から黒い筋が垂れて、頬に薔薇の紋章を描き出す。ジャックが掲げた手の甲にも、リーズがべーっと出した舌にも同じ紋章が浮かび上がる。
『君たちは悪魔の子なの?』
信じられないのも仕方がない。
悪魔から見ても、蘇らされた人間がこれだけ集っているのは異常なのだろう。
「私たちは全員、烙印持ちなのですわ。異能があるので不死者とも十分にやりあえます」
グリフォンの身体能力はすさまじい。それにダークの破壊力も伊達ではない。
そこに私たちの任務遂行能力が加われば、校長なんてたちどころに撃退できるはずだ。
しかしロビンスは、夜風の冷たさとは別の悪寒に頭を震わせた。
『危ないのは不死者じゃない。おれだよ! 校長先生に君たちを殺せって命じられたら、おれは……』
「命令には反抗できるはずです。あなたは、次の支配人候補である貴族を殺せと命じられていたのに、逆らったではありませんか」
指摘すると、ロビンスは目を丸くした。
『必死すぎて気づかなかった。どうして反抗できたんだろう?』
ダークは帽子の位置を直しつつ、「あくまで仮説だが」と語り出した。
「契約書の効果が薄れてきているのではないかな。本来は城主の子孫に引き継がれていくはずが、縁戚や無関係のキャタピラ氏へと流れたことで、契約自体に整合性が取れなくなったんだ」
『ってことは、おれ、自由になれるかもしれない』
かすかな、けれどたしかな希望を見出したロビンスは瞳を輝かせた。
私は、彼の嘴に手を当てて誓う。
「悪魔グリフォン。私たちと共闘しましょう」
『分かったよ。君たちのことはおれが守るね』
申し出を受けて、ロビンスは大きく頭を下げた。
こうして、私は悪魔と手を組むことに成功したのである。




