一話 監督生とやさしい悪魔
「今日はテーブル周りと本棚を頼む」
チャールズの指示を聞きながら、私は濡らした布巾でテーブルを拭きあげる。
監督生の部屋は、私が使っているような上級生用の個室とは違って、寝室と応接間の二つがくっついている。
寮監が訪ねてきたり、生徒の相談に乗ったりするので、こうして腰を落ち着ける部屋が必要なのだという。
上級生の部屋の掃除は寮弟の役目。
双子は「そんなのアリスのやることじゃない」と文句たらたらだったが、私だって掃除くらいできる。
それに、チャールズが命じるのは、本棚の埃を取ったり家具を拭いたりと簡単な作業ばかりなので負担にはならない。
(他の寮弟はこき使われて大変みたいだけど、チャールズさんは掃除をほとんど自分でやってしまうから最低限なのよね)
双子にも見習ってほしいものだ。
これまでのダムとディーは、遊んだおもちゃは出しっぱなし、箒を握ると魔法使いごっこを始めてしまうし、自分の洗濯ものも畳めなかった。
そんな彼らも、アーク校に来て少しだけ変わった。
私がいつ訪ねても、部屋はそこまで乱れていない(ベッドに寝そべって、お菓子を食べていることはあったが)。洗濯物も自分でまとめて係に渡している。
掃除は大雑把だけど、男の子ならこんなものだろうと納得できる程度だ。
悪魔の罠にかかった件に目をつぶれば、寄宿学校に入れたのは正解だったようだ。
考え事をしていたら、テーブルのささくれにスカートが引っ掛かってしまった。
見かねたチャールズが、腰をかがめて取ってくれる。
「アリス嬢を見ていると父親になったような気分になるな。そういう相手は、この学校でロビンスだけだと思っていた」
「ロビンスさんとチャールズさんは仲良しですね。いつから親しいのですか?」
「新入生の時からだ。当時の私は、上級生に不当に殴られていた」
「ええっ!?」
仰天する私にチャールズが明かしたのは、信じられない過去だった。
チャールズが入学した頃は、上級生と寮弟の誓いを交わせなかった新入生を、下僕のように扱ってもいいという不文律があった。
誰の寮弟にもならなかったチャールズは、大きめに作ったテイルコートがムカつくと因縁を付けられて、上級生に呼び出されては殴られていた。
相手が貴族令息だったので監督生も見て見ぬふり。
教師は、生徒同士のよくある喧嘩と片づけて、話も聞いてくれなかった。
日増しに酷くなっていく暴力。助けを求めてもお前が弱いせいだと責められる環境。
次第にチャールズは、笑いも泣きもしない生徒になっていった。アザだらけの体を制服の内側に押し込めて、淡々と生き延びることだけ考えていた。
そんなある日、激しく殴られたチャールズは、芝生広場にひっくり返っていた。
頬にポタリと冷たい感触がして目を開ければ、視界いっぱいに広がる黒い雲がゴロゴロとうなっている。
そういえば今朝、監督生に嵐が来るから気を付けるようにと言われた気がする。
海の近くは雷が落ちやすい。雷鳴が聞こえてきたら、すぐに寮に入らなければ命が危ない。
広場に誰もいないのはそのせいかと思った。
だが、それでもチャールズは動かなかった。
教師も他の生徒も親も見捨てた身だ。いっそ、いなくなった方が喜んでもらえる。
チャールズは痛みに耐えながら立ち上がり、天に向かって吠えた。
『私を打て。もう、終わらせてくれ!』
ゴロっと鳴った雲は、次の瞬間には、目が眩むほど強い光の槍を放った。
雷が、空を滑るように枝分かれしながら、チャールズへと向かってくる。
これで辛い運命とはおさらばだ。
晴れやかで、それでいて苦しい気持ちになった時、巨大な翼が覆いかぶさった。
翼の主は、見たこともない動物だった。
ライオンのような下半身に、頭は鷲という奇想天外さ。
ひょっとしてこれが、アーク校に棲むという怪物だろうか。
怪物は、チャールズの代わりに雷に打たれる。
そのシルエットを網膜に焼き付けて意識を失った。
次に目覚めると、なぜかユニコーン寮のベッドに寝かされていた。
『君、大丈夫?』
心配そうに覗き込んできた生徒がロビンスだった。
「ロビンスは倒れている私に気づいて、雨の中ユニコーン寮まで運んでくれたらしい。翼の生えた怪物について尋ねたが、何も見なかったそうだ。あれが何だったのかは誰も知らない。私は一人で調べることにした」
チャールズは、本棚から一冊のノートを取り出して開いた。
怪物の調査内容がまとめられている。
「調べたところ、意外なことが分かった。同じように怪物に命を助けられた生徒が、複数いたんだ」
「怪物は生徒を救って歩いているんですか」
私は、にわかには信じられなかった。
一般的に、怪物というのは人間を襲うもののはずだ。
チャールズも「私も驚いた」とこぼす。
「階段を踏み外したら襟を噛まれて引っ張り上げられたとか、古城の崩れ目から落ちてきた石を弾き飛ばしてくれたとか。それらの生徒たちは全員、鷲の上半身とライオンの下半身を持つ怪物を目にしていた。自分の記憶とそれらの証言を元に文献をあたっていくと、〝グリフォン〟という悪魔にいきついた」
新たに開かれたページには、私が目にしたのとそっくりな怪物が素描されていた。
違うのは、片方の翼が破れていないことだけだ。
「この怪物は、悪魔なのですか?」
「そうらしい。かつてこの孤島を所有していた領主と契約を交わし、一夜にして城を作り上げたというのがこのグリフォンだったんだ。城主が死んだ後もこの島にとどまって暮らしていたらしい」
怪物の伝説と、ここに潜む悪魔が繋がった。
契約した城主が亡くなった後、グリフォンはどんな気持ちで城にとどまり続けたのだろう。寂しかったとしたら、城が寄宿学校へ変わり、大勢の少年たちがきて嬉しかったのかもしれない。
だから、人知れず生徒たちを助けている。
(それなのに、私たちが襲われたのはなぜかしら?)
私たちもアーク校の生徒だ。しかしあの晩、グリフォンは攻撃してきた。
教師に手出ししたからだとしたら、グリフォンは不死者たちと深い関わりがある。
敵か、味方か。
私一人で答えを出すには知識が足りない。
「チャールズさんは、グリフォンを善い悪魔だと思いますか?」
「悪魔にも善悪があるのなら、そうだろうな。私が悪魔学を研究しているのは、卒業までにグリフォンを見つけてお礼を言うためだ。個人的にやっていることなので、まだ手掛かりさえ見つけられていない」
「好きな食べ物でも分かればおびき出せそうですけれどね」
悪魔学で学んだ魔法陣に、骨付き肉を置いたら出てきてくれないだろうか。
「遊ぶのは好きそうだぞ。毎年、ハロウィンには目撃例が多く出る」
ハロウィンは、古代ケルト人が行っていたサウィン祭を元にしたお祭りだ。
秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す意味合いの儀式だが、大英帝国では十一月の頭に別の祝日ができたこともあり多くの地域で廃れている。
「この島では、いまだにその風習が残っていてな。生徒が手作りでさまざまな仮装をして悪霊から身を守る。寮対抗の林檎食い競争もある」
チャールズはせっかくの機会だと言って、選手の勧誘を始めた。
「ライオン寮の選手をトゥイードルズに頼みたいと思っていた。アリス嬢も出てみないか?」
「私、男性ほど足は速くありませんけれど……」
「勝たなくてもいい。盛り上がればそれで十分だ。歓声に引かれてグリフォンが現れるかもしれないぞ」
グリフォンが現れるならやる価値はありそうだ。
真夜中の急襲では逃げる一方だったけれど、計画的に迎え撃つならばこちらにも勝機はある。
(グリフォンが罠の悪魔かどうかははっきりしないけれど、この機会を使わない手はないわね)
「そういうことでしたら出場しますわ。ダムとディーにも話しておきますね」
「頼む。来週の開催までに好きな仮装を準備しておけ」




