二話 おおうそつき
西棟と東棟を結ぶ廊下が繋がっていた。
私がいる位置は、ちょうど回廊の中央辺り。
右を見ると、積み上がった家具で道が塞がれている。
左になら進めるが、破けた絨毯の上には古びた甲冑や槍が無造作に転がっていた。
元は物置として使われていたのが、いつしか忘れ去られたのだろう。
隠れているにはもってこいの場所だ。けれど、割れた窓から吹き込む夜風は冷たくて、長時間耐えられそうにない。何か羽織るものが必要だ。
使えそうな布は、壁に等間隔でかけられたカーテン。肖像画を日光から守るためのもので、端がボロボロにほつれているが、ないよりはマシだ。
私は綺麗なボロ布を求めて回廊を進んだ。
布の間から見える肖像画は、みんな黒いテイルコート姿。
顔はよく見えないが、アーク校歴代の生徒たちだろう。
カーテンは進むごとに綺麗になっていく。肖像画の年代も新しくなっていった。
曲がり角のそばにかけられた一枚は、ほとんど原型をとどめている。
これに決めた。ぐいっと引っぱると留め金が外れ、床に落ちるカーテンに巻き込まれて座り込む。周囲には、積もり積もった埃が舞った。
「うう……。掃除が行き届いていないわ」
涙目で肖像画を見上げる。
暗いせいで、描かれた生徒の姿は薄ぼんやりとしか見えない。
椅子に座って、こちらに顔を向けているようだが……。
視線を外そうとしたその時、夜空に稲妻が走った。
「え?」
閃光に照らされた絵に、目が釘付けになる。
たれ気味の目元に細くて高い鼻。弧を描いた口が特徴の、どこか女性的な笑顔。
その顔つきは、私がよく知る青年に似ていた。
「リーズ?」
立ち上がると、再び雷が光って絵がよく見えた。
面立ちは完全に同じだ。けれど、今の彼と肖像画には決定的な違いがある。
絵の方は、鮮やかなストロベリーブロンドなのだ。
対してリーズは緑がかった灰色の髪をしている。
私は混乱した。これは誰なの?
肖像画の下にある、錆びたプレートに目を凝らす。
暗くて苦戦していたら雷に助けられた。
──監督生ユリシーズ・チェシャ──
名前が違うようだ。やっぱり別人かしら。
首を傾げる私に声がかかった。
「探したわよ、お嬢」
「リーズ……」
現れたのはリーズだった。
暗さをものともせず、まっすぐに回廊を進んでくる。
「怪物はどこかに姿を消しちゃったみたいよ。アタシと行きましょう」
「その前に確認させて。あなた、どうやってここに入ってきたの?」
さっき私は扉に鍵をかけた。リーズの鍵束は私が預かっているし、何より彼が歩いてきたのは私が歩いてきた廊下とは別方向である。
別の通路でも見つけたのだろうか。
しかし、リーズは答えないまま、壁の肖像画を見上げた。
「アタシにそっくりね。よく描けているわ」
「質問に答えて、リーズ」
ドン、と雷が落ちる。
それで気づけたが、肖像画の人物は膝にストールをかけていた。
濃淡ピンクの配色は、目の前にいるリーズの首元に巻かれているのと同じだ。
「絵の中のストール、あなたの物と同じよ。それは生き別れのお母さんが編んでくれたって言っていたわよね……」
手編みの品は、一つとして同じ物が存在しない。絵と現物では少し風合いが異なるが、ここまで個性的なストールは他にないと断言できる。
「リーズ。あなたの本当の名前は、〝ユリシーズ・チェシャ〟なの?」
「ここで違うと言って、信じてくれるわけ?」
信じられない。
彼が弁明してくれないからではなく、私の直感がそう言っている。
黙っていると、リーズは渦中のストールを背中にはねのけた。
「珍しい苗字でしょう。そのせいで、みんなアタシを『チェシャ猫』って呼ぶのよ。懐かしいわ~。生徒たちの弱みを握って、監督生として上り詰めた日々が」
うっとりと思い出に浸るリーズは、私の知らない男の人の顔をしていた。
「どうして偽名を使っていたの?」
「野良猫は飼い主ごとに名前を変えるものよ」
「私、あなたの飼い主じゃないわ。家族よ!」
「飼い主がみんな、そう言ってくれる人間だったらよかったわね」
リーズは、絵から視線を外して、慈愛の目で私に微笑んだ。
「お嬢。この世にはね、まっとうな道では生きていけない子がたくさんいるの。リデル男爵家に拾われた幸運な双子がいるように、偽名も嘘も使い果たして悪あがきしなければ今日のミルクにありつけない子もいるわ。アタシはそういう子だった……」
悲しそうに言われて、私は自分の浅はかさを知った。
リーズにはリーズの事情があり、嘘をつくのが彼の処世術なのだ。それを卑怯だとか、信じられないとか責めるのは、恵まれた人生を送ってきた者の驕りでしかない。
恵まれた側の自覚がある私は目を伏せた。
「そうだったのね。酷いことを言ってごめんなさい」
「お互いサマよ。お嬢が利口な子でよかったわ~」
明るく笑い飛ばされてほっとした。
偽名であっても彼は私の大切な家族だ。
過去なんて関係ない。これからのリーズを知っていけたらそれでいい。
納得しかけた私は、次の言葉に硬直した。
「それに、大馬鹿よね」
「え……?」
きょとんとする私の耳に口を寄せて、リーズは低く囁く。
──汝、〝ユリシーズ・チェシャ〟の一切を忘れよ──
「!!」
耳朶がぶわっと熱くなった。
鼓膜を震わせた声は、電流のように神経を伝って脳へと届く。
リーズが『二枚舌』の能力を使ったのだ。
頭に白い霞がかかって、もはや自分の意志では指一本動かせない。
「り、リーズ……」
私は朦朧としながらリーズを見上げる。
下りかけた目蓋が邪魔して、ニヤニヤ笑いの口元しか見えない。
「心配いらないわ。目が覚めたら、アタシはあなたの〝リーズ〟に戻っているから」
本当に?
私が真実を忘れたら、あなたと今まで通りの家族でいられる?
「だから、おやすみ、お嬢」
とんと額に触れられたら、一気に眠気が襲ってきた。
倒れそうになる体を抱きとめられて、気配がどんどん遠くなって──ついに私は、意識を手放した。




