一話 消された鷲の痕跡
「女子を襲おうとした生徒がいたんだってさ」
「転入生の双子が助けたらしい」
「犯人は監督生にボコボコにされたんだろ?」
そんな噂が校内を駆け巡ったのは、私がブレッドに襲われかけた翌日のこと。
犯人たちが授業を休んだせいで火がついたように広まった。
同時に、私を助けたダムとディーの喧嘩強さも伝播した。
(これで、私に手を出す愚か者はいなくなるでしょう)
平穏無事なスクールライフが戻ってくる。そう思えたのは、午前中だけだった。
「……ねえ、ダム」
私は板書する手を止めて小声で話しかけた。
午後の正字法の授業には気だるい空気がただよって、真面目に話を聞いている生徒はほとんどいない。ダムも、ペンを持った私の髪を指に絡ませて遊んでいる。
「なあに、アリス」
「護衛と言っても、さすがにこれはないんじゃない?」
教室の後方にある席で、私はなぜかダムの膝に座っていた。あまりに堂々といちゃついている(ように見える)ので、教師も見て見ぬふりをしている。
窮する私に、ダムはしれっと「あり」と答えた。
「アーク校では、女子は男子の膝の上で授業を受けるんだって、チャールズが言ってた」
「そんな決まりあるわけないでしょう。ディーもおかしいと思うわよね?」
「思わないよ。次の授業は僕の膝にきてね」
「う……」
ディーの穏やかな微笑みに二の句が継げなくなる。
強引なダムと、甘え上手なディー。
そっくりだけど違う二人に翻弄される乙女の欲望ダブルセットにはあらがえない。
双子を年の離れた弟のように思っていた私は、溺愛ムーブをかまされるたびに複雑な気持ちになる。
だって、こんなの、ときめくに決まってるじゃない!
ダークが以前のように愛の言葉を囁いてくれたら、私の瞳には彼しか入らなかった。たとえ、ダムとディーがしびれるくらいの美丈夫に育っても。
もしも私が二人に恋をしても、奪い返しには来てくれないだろうな――なんてセンチメンタルに浸っていたら授業が終わっていた。
「「アリス、行こう」」
ダムとディーに腕を回されて語学の教室へ向かう。
その途中で、階段を下りてきたリーズに呼び止められた。
「三人とも、お手伝いを頼めるかしら。図書室まで来てくれる?」
「もちろんですわ」
手伝いを頼むというのは、私たちで決めた暗号だ。
彼がこの言葉を唱える時は、新たな情報が見つかった合図である。
リーズは、私たちを連れて図書室へ入り、扉をがっちりと閉じて鍵をかけた。
彼が持っている鍵束には、ここの鍵もある。
ちょうど授業の開始を告げる鐘が鳴り響いた。
普段から人の出入りが少ない図書室なので、鍵をかけておいても不審がられない。
鍵束を腰に引っかけるリーズは、教師らしくない呆れ顔だ。
「どこもお嬢の噂で持ち切りね。たった一日で尾ひれがつきまくってるわ」
「知ってる。アリスが実はお忍びで大英帝国に来たハンガリーの王女だって」
「聞いてる。アリスが双子の騎士に命じて無礼を働いた生徒を粛正したって」
ダムとディーは噂を楽しんでいるようだ。
私にしてみれば迷惑極まりないんだけど。
「王女も双子の騎士も夢見がちだわ」
「アタシは嫌いじゃないけど、もう少しリアリティが欲しいわよね。たとえば、『アーク校の校長は不死者なのだ』って話くらいには」
さして現実的でない話題を持ち出して、リーズは図書館の奥へ歩いていく。
壁を埋め尽くす本たちは海のようだ。静けくも荒々しい波の中にもぐると、外からは想像もできないような世界が広がっている。
「噂を教えてくれた生徒が、この学校にはこんな噂もあるんだって不死者の話をしだしたのよ。四方山話だと笑って帰したけど、アタシたちには心当たりがあるじゃない?」
「悪魔なら死なないわ」
間髪入れず答える私に、リーズは深く頷いた。
「だからすぐに調べたわ。ここは教師の入れ替わりが少ないみたいだけど、さすがに歴代校長ぐらいは記録されているはずよ。で、見つけた校史がこれ」
突きあたりの書架から大きな古書を引き出す。
装丁の皮は乾ききっていて、めくると細かな埃が床に落ちた。
長い間、誰にも開かれずに保管されていたようだ。
表紙には、ライオンと鷲が向かい合わせに描かれている。
「ライオンとユニコーンじゃないのね?」
「当初は鷲だったらしいわ。それがいつからかユニコーンへ変わったの。この本が書かれたのは三百年ほど前。開校を記念して作られた本で、古城の持ち主が所有権を譲り渡した当時の校長の名前が記されている」
慎重にページをめくっていったリーズは、骨ばった指でとある名前をさし示す。
『学校長 キャタピラ』
「今の校長と同じ名前だわ。でも、これだけで不死者と決めつけるのはどうかしら。子孫なのかもしれないわよ」
「これを見てもそう言える?」
リーズがめくった次のページには、アーク校で教科を担当する教師の名前がずらりと並んでいた。
天文学、数学、ラテン語……どの先生も、現在の教師と同じ名前だ。
一人二人なら偶然として片づけられるが、ここまで一致するとなると異常である。
「こうなると信じないわけにはいかないわね」
校長たちは、悪魔の術で生き永らえているのだろう。
ここは孤島なので人の往来がほとんどない。
それに、生徒は卒業してしまうと二度とアーク校には近づかない。
教師が何十年、何百年と教壇に立ち続けていることを看破する生徒はいないはずだ。
ダムとディーは、興味津々でリーズの手にあった本を覗きこんだ。
「本当に校長が悪魔なの?」
「それとも先生の方なの?」
「その可能性もあるのよねぇ。誰が悪魔かしっぽを出すまではアタシも断定できないわ」
「泳がせるのが得策だけど、時間がかかりすぎてしまうわね。どうしようかしら」
頭を抱える私を見て、リーズはぱっとひらめいた。
「確実な方法があるじゃない。お嬢、あなたの能力はなあに?」
「私の烙印の力は『能力解除』……そうだわ!」
教師たちが悪魔の術で不死者にされているのであれば、私の異能で解き放てる。
力及ばずに術を解けなくても、悪魔の所有印が押されているかどうかは分かる。
ただしこの力は、悪魔当人に対してはきかない。
悪魔の子の能力は、どうあがいても悪魔には競り負けるのである。
「私の異能なら罠の悪魔をあぶり出せる。でも、能力を解除したら、悪魔に生かされていた教師はその場で死んでしまうわ……」
熱意に差はあるが、教え方の悪い教師は一人もいない。
校長の体罰は許せないけれど、悪魔学の授業は面白くて好きだ。
急に教師たちが亡くなったら、困るのはチャールズやロビンスたち生徒である。悪魔に支配された学校でも、彼らにとっては少年時代を過ごす大切な学び舎なのだ。
私の都合で、生徒たちの居場所を壊していいのだろうか。
生徒の一人として過ごした日々が、ためらいとなって襲ってくる。
憂う私の耳元に、リーズは唇を寄せて囁いた。
「お嬢、迷わないで。全ての人を助けるなんてできっこないの。同情は身を滅ぼすって、分かるでしょう?」
「そうね」
第一目標は、ダーク、ジャック、ダムとディーを元に戻すこと。
罠をかけた悪魔を見つけるためには、不死者を一掃するしかない。
自然の摂理を外れた者は粛正対象だ。裏社会を見守る貴族だって、異能を操る悪魔の子だって、いつかは死の門をくぐらなければならない。
生きている者、全てに死は存在し、その循環で世界は回る。
「誰が罠の悪魔なのか、私の烙印で暴きましょう。悪魔を見つけ出した後、どうやって術を解いてもらうかが問題ね」
今までは、弱らせた悪魔をダークの力で地獄へ送り返していた。
罠の悪魔に術を解かせるには、彼の協力が不可欠だ。
「私、ダークに手を貸してってお願いしてみるわ。話を聞いてくれるか分からないけれど……」
「「だめ」」
双子は、むうっと頬を膨らませた。
「僕はこのままでいい」
「僕もこのままがいい」
私の次は双子かと、リーズは腰に手をあてて叱った。
「二人とも、お嬢を困らせないで。元に戻らないと、どんな悪影響が出てくるか。いい子だから言うことを聞きなさい」
「「いや」」
両側から私の腕をとった双子は、リーズにべーっと舌を出した。
「アリスは悪魔探しに行かせない」
「僕らはアリスとこのままでいる」
「待って二人とも。ごめんなさい、リーズ。また今度ね!」
私は引きずられるようにして図書室を出た。
家族の強い意志には、リデル男爵家の当主も手も足も出ないのだ。
図書室に残されたリーズは、アリスを力づくで奪っていった二人を讃えた。
「よっぽど今の大きさが心地いいのね、あの二人は」
成長して以降、彼らは必死にアリスへアプローチしている。
ダークのようにアリスに触れ、ジャックのようにアリスを守り、リーズのようにアリスを世話して、恋心に気づいてもらおうとしている。
だが、やり方が幼稚だ。十歳ならあんなものかもしれない。
リーズなら、アリスを恋の鎖で絡めとり、二度と他の男と触れ合わないように縛りつけて独占する。
少女を夢中にさせる方法はいくらでもある。それで駄目なら、物理的に閉じ込めてしまえばいい。足を斬り落とすのは最後の手段だ。
「嫌ねぇ、アタシったら」
自分の残酷さを笑いながら、リーズは突きあたりの本棚まで戻った。
校史を元の場所に差し入れて天井を見上げる。
そこには、翼の生えた蛇のような悪魔──ジャバウォックと戦う、ライオンと鷲の絵が描かれていた。アーク校に昔から伝わっている絵だ。
ジャバウォックの足下には一人の少女がうずくまっている。
アリスに似た赤い髪を持つその少女は、悪魔に魅了され、地上にジャバウォックを呼び出した〝召喚の乙女〟だと言われている。
「悪魔にやるくらいならアタシがもらうわ」
誰にでもなく宣言して、リーズはニヤニヤ笑いだけ残して図書室を去った。




