四話 冷却期間はじめました
どうして、キスしてくれないんだろう。
心を覗けば、私がどれだけ彼を愛しているのか分かるのに。
脱力した腕からバスケットがすべり落ちて、床にお菓子がこぼれる。
昨日もらったケンダルミントケーキは、砕けて白い砂のように散らばった。
(ダークが思い詰めているのは、私が頼りにならないからなのね)
道理で顔も見たくないわけだ。道で会っても無視するわけだ。
彼の心情を理解しながらも、身勝手な私はざっくりと傷ついた。
「……支えてあげられなくて、ごめんなさい」
謝った拍子に、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。
ダークが目の前にいなくて良かった。もしも私が泣いているのを見たら、『今のは冗談だよ』と笑って、いつものように抱き寄せてくれたかもしれない。
優しい人だから。
相手が望んでいるものに気づいて、与えてくれる人だから。
心が弱っている時までそんな風に気を遣わせて、彼が苦しむのは見たくない。
「っ、私もう行くわね」
フラフラした足取りで階下へ向かう。
共有室に入ると、着替えてベレー帽を被ったジャックがお茶の支度をしていた。
茶葉を測る手伝いをしていたリーズは、私を見るなり血相を変えた。
「お嬢、目が真っ赤だわ。泣いたの?」
リーズとジャックは、手元の作業を投げ出して私をソファに座らせた。
心配そうに顔を覗き込んで、何を言われたんだと心配してくれる。
「何をって」
単に、恋人から戦力外通告をされただけ。
お前は分かってくれないと突き放された、それだけなのよ。
考えていたら居たたまれなくなって、思わずしゃくりあげてしまった。
「もう見てらんないわ!」
リーズは両腕をがばっと広げて、力いっぱい抱きしめてくれた。
「ハグって不思議でね。誰かにしてもらうと、痛みや不安が和らぐ効能があるの。たぶん人間って、一人で生きるようには作られていないのね」
女性的な話し方をするリーズだが、私を包む体は成人男性らしく大きい。
力が強くて、それがかえって安心する。体が安定するだけでなく、グラグラ不安定だった心もまた、同じように支えられていた。
誰かを支えたいなら、私も彼のように大きくなければならなかった。
(私は、ダークに信頼されるには子どもすぎたんだわ)
十六歳にしては大人びている自覚があったけれど、まだまだ足りなかったようだ。
ぐすんと鼻を鳴らすと、リーズは私に頬ずりした。
「可哀想なお嬢。男っていつもこうだわ。かっこつけるのは自分が手綱を握っている時だけ。手を離したら急に怖くなって、ピイピイ泣き喚いて周りを蹴っ飛ばすんだから手に負えないのよ」
「振り回すとお嬢が酔うぞ」
ジャックが私の前にカップを置いた。淹れたての紅茶からは白い湯気が上がる。
リーズに解放された私は、両手でカップを持ち上げた。
寮で共有している食器は、薄くて滑らかなボーンチャイナではなく、素朴な厚みがある陶器だ。熱の伝わりが柔らかいので、ゆっくり口に運べる。
紅茶を飲み込めば、体の中心からほわっと温かくなった。
「ありがとう。もう大丈夫よ」
「ナイトレイに何を言われた?」
ジャックに真剣な顔で問いただされて、私は口をつぐんだ。
上手く説明できる気がしない。確かにショックを受けているのに、ダークが何を言わんとしたのか分からないままなのだ。
角が生えていたってダークは素敵だし、体が小さくたって好きな気持ちは変わらない。
(どこも醜くなんてないのに)
そう言ってもダークには届かない。
彼に聞いてもらえなければ、何を言っても私の独り相撲だ。
ただ一つ、はっきりしていることは。
「……私も、ダムとディーみたいに大きくなりたかったわ」
しみじみと漏らしたら、ジャックはぎょっとした。
「は?」
「大きくねぇ。それはどうして?」
「だって、大きければみんなを守れるじゃない。頼りにしてもらえるじゃない。ダークは今の私が信用できないの。私は失望されてしまったのよ……」
乙女ゲームの恋愛みたいに、現実の恋人付き合いは単純じゃない。男の人のプライドは難解で、しかも私はとっても愚かだから、小さなことですれ違ってしまう。
「私にはこういう時、どうするのが正解なのか分からないわ」
「分からなくて当たり前よ。恋に正解ってないんだもの」
恋愛上級者のリーズは物知り顔で助言をくれた。
「放っておいてほしいって言うなら、しばらく離れてみたらどうかしら。冷却期間が必要な時期だってあるし、このまま向こうの興味がなくなってくれたらアタシは大喜びよ。愛しいお嬢を伯爵に独り占めされて、腹立たしいったらなかったわ。毎日お嬢成分が足りなくて大変だったんだから~!」
わざと唇を突き出して迫るリーズの頭を、ジャックが「お嬢に何してんだ」とお盆で叩いた。リーズは頭を押さえて涙目になる。
「痛いわ! そんな力で殴ったら、頭が吹っ飛んじゃうわよ!」
「てめえの首はそんなにもろいのか」
「そりゃもう。大昔、すっぱり刎ねられた後遺症かもね」
口を開いてリーズは笑った。歯が見えるニヤニヤ笑いを『チェシャ猫のように笑う』と表現するが、彼の笑顔はまさしくそれだった。
ジャックはあきれ顔でお盆のへこみを直す。
「またかよ。双子が喜ぶからって残酷な話ばかりしやがって」
「だって本当だもの。マザーグースもこんなものでしょ。もし吹っ飛んでもアタシの頭はベッドの下には転がってないわよ。木の上を捜して。そこには──」
「ニヤニヤ笑いだけ残ってるのね」
答えた私に、リーズはとびきりの笑顔を浮かべて抱きついてきた。
「お嬢、大正解よ! 伯爵のことは忘れて、アタシとお茶会しましょ♡」
「てめえは何度抱きつくつもりだ。お嬢もうれしそうな顔をするな。増長する!」
ジャックは容赦なくお盆をふるう。
リーズの石頭は健在で、ゴン、ゴン、ゴウンと銅鑼のような音をユニコーン寮に響かせた。




