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【翻訳英語版③巻発売】悪役アリス  作者: 来栖千依
第四章 闇の呼び声

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四話 冷却期間はじめました

 どうして、キスしてくれないんだろう。

 心を覗けば、私がどれだけ彼を愛しているのか分かるのに。


 脱力した腕からバスケットがすべり落ちて、床にお菓子がこぼれる。

 昨日もらったケンダルミントケーキは、砕けて白い砂のように散らばった。


(ダークが思い詰めているのは、私が頼りにならないからなのね)


 道理で顔も見たくないわけだ。道で会っても無視するわけだ。

 彼の心情を理解しながらも、身勝手な私はざっくりと傷ついた。


「……支えてあげられなくて、ごめんなさい」


 謝った拍子に、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。

 ダークが目の前にいなくて良かった。もしも私が泣いているのを見たら、『今のは冗談だよ』と笑って、いつものように抱き寄せてくれたかもしれない。


 優しい人だから。

 相手が望んでいるものに気づいて、与えてくれる人だから。


 心が弱っている時までそんな風に気を遣わせて、彼が苦しむのは見たくない。


「っ、私もう行くわね」


 フラフラした足取りで階下へ向かう。

 共有室に入ると、着替えてベレー帽を被ったジャックがお茶の支度をしていた。

 茶葉を測る手伝いをしていたリーズは、私を見るなり血相を変えた。


「お嬢、目が真っ赤だわ。泣いたの?」


 リーズとジャックは、手元の作業を投げ出して私をソファに座らせた。

 心配そうに顔を覗き込んで、何を言われたんだと心配してくれる。


「何をって」


 単に、恋人から戦力外通告をされただけ。

 お前は分かってくれないと突き放された、それだけなのよ。

 考えていたら居たたまれなくなって、思わずしゃくりあげてしまった。


「もう見てらんないわ!」


 リーズは両腕をがばっと広げて、力いっぱい抱きしめてくれた。


「ハグって不思議でね。誰かにしてもらうと、痛みや不安が和らぐ効能があるの。たぶん人間って、一人で生きるようには作られていないのね」


 女性的な話し方をするリーズだが、私を包む体は成人男性らしく大きい。

 力が強くて、それがかえって安心する。体が安定するだけでなく、グラグラ不安定だった心もまた、同じように支えられていた。

 誰かを支えたいなら、私も彼のように大きくなければならなかった。


(私は、ダークに信頼されるには子どもすぎたんだわ)


 十六歳にしては大人びている自覚があったけれど、まだまだ足りなかったようだ。

 ぐすんと鼻を鳴らすと、リーズは私に頬ずりした。


「可哀想なお嬢。男っていつもこうだわ。かっこつけるのは自分が手綱を握っている時だけ。手を離したら急に怖くなって、ピイピイ泣き喚いて周りを蹴っ飛ばすんだから手に負えないのよ」

「振り回すとお嬢が酔うぞ」


 ジャックが私の前にカップを置いた。淹れたての紅茶からは白い湯気が上がる。

 リーズに解放された私は、両手でカップを持ち上げた。


 寮で共有している食器は、薄くて滑らかなボーンチャイナではなく、素朴な厚みがある陶器だ。熱の伝わりが柔らかいので、ゆっくり口に運べる。

 紅茶を飲み込めば、体の中心からほわっと温かくなった。


「ありがとう。もう大丈夫よ」

「ナイトレイに何を言われた?」


 ジャックに真剣な顔で問いただされて、私は口をつぐんだ。


 上手く説明できる気がしない。確かにショックを受けているのに、ダークが何を言わんとしたのか分からないままなのだ。

 角が生えていたってダークは素敵だし、体が小さくたって好きな気持ちは変わらない。


(どこも醜くなんてないのに)


 そう言ってもダークには届かない。

 彼に聞いてもらえなければ、何を言っても私の独り相撲だ。

 ただ一つ、はっきりしていることは。


「……私も、ダムとディーみたいに大きくなりたかったわ」


 しみじみと漏らしたら、ジャックはぎょっとした。


「は?」

「大きくねぇ。それはどうして?」

「だって、大きければみんなを守れるじゃない。頼りにしてもらえるじゃない。ダークは今の私が信用できないの。私は失望されてしまったのよ……」


 乙女ゲームの恋愛みたいに、現実の恋人付き合いは単純じゃない。男の人のプライドは難解で、しかも私はとっても愚かだから、小さなことですれ違ってしまう。


「私にはこういう時、どうするのが正解なのか分からないわ」

「分からなくて当たり前よ。恋に正解ってないんだもの」


 恋愛上級者のリーズは物知り顔で助言をくれた。


「放っておいてほしいって言うなら、しばらく離れてみたらどうかしら。冷却期間が必要な時期だってあるし、このまま向こうの興味がなくなってくれたらアタシは大喜びよ。愛しいお嬢を伯爵に独り占めされて、腹立たしいったらなかったわ。毎日お嬢成分が足りなくて大変だったんだから~!」


 わざと唇を突き出して迫るリーズの頭を、ジャックが「お嬢に何してんだ」とお盆で叩いた。リーズは頭を押さえて涙目になる。


「痛いわ! そんな力で殴ったら、頭が吹っ飛んじゃうわよ!」

「てめえの首はそんなにもろいのか」

「そりゃもう。大昔、すっぱり刎ねられた後遺症かもね」


 口を開いてリーズは笑った。歯が見えるニヤニヤ笑いを『チェシャ猫のように笑う』と表現するが、彼の笑顔はまさしくそれだった。

 ジャックはあきれ顔でお盆のへこみを直す。


「またかよ。双子が喜ぶからって残酷な話ばかりしやがって」

「だって本当だもの。マザーグースもこんなものでしょ。もし吹っ飛んでもアタシの頭はベッドの下には転がってないわよ。木の上を捜して。そこには──」

「ニヤニヤ笑いだけ残ってるのね」


 答えた私に、リーズはとびきりの笑顔を浮かべて抱きついてきた。


「お嬢、大正解よ! 伯爵のことは忘れて、アタシとお茶会しましょ♡」

「てめえは何度抱きつくつもりだ。お嬢もうれしそうな顔をするな。増長する!」


 ジャックは容赦なくお盆をふるう。

 リーズの石頭は健在で、ゴン、ゴン、ゴウンと銅鑼のような音をユニコーン寮に響かせた。


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