二話 はみだしものの一輪
「どうして一週間も眠っているのかしら……」
サイラント邸を出た私は、空をおおう雲を見上げた。
ここは貴族のお屋敷が並ぶメイフェアに近い住宅街だ。
西は緑豊かなハイドパーク、北は人通りが絶えないオックスフォード・ストリート、ハイブランドの店が多く並ぶリージェント・ストリートに囲まれていて、行き交う人々もどことなく上品な出でたちである。
誰しも足早に行き交うのは、六月の雨の冷たさを知っているからだ。
「降ってこないといいわね」
「濡れネズミになる前に家に帰るぞ。雨はうぜえからな。辻馬車を呼んでくる」
ジャックは、うっとおしそうに上着を脱いで腰元に結び、タイを引っぱって緩めた。
いつもの不良スタイルに戻りながら停車場に向かう彼を、私は「待って」と呼びとめる。
「その前に聞かせて。マデリーン嬢の部屋で、なにを見つけたの?」
「……歩きながらじゃない方がいいな」
ジャックは、近場のコーヒーハウスへ入った。
新聞を買い、店内にくゆる紫煙をさけて、テラス席へ私を座らせる。
泣き出しそうな空模様のせいで、屋外に他の客はいなかった。
「オレがマデリーンの部屋で見つけたのは、これだ」
ジャックが懐から取り出したのは、ハンカチ包みだった。
中には、ブラウンガラスの小さな薬瓶と、青薔薇が一輪くるまれている。
「薬の商品名はダフィー・エリクシル。『阿片チンキ』と呼ばれている万能薬で、薬局だけでなく雑貨店でも売られている」
話しながら、ジャックは小脇に挟んでいた新聞を広げた。
「一面にのったばかりだ。読んでみろ」
「ええと、『阿片チンキの中毒性を医師団が提唱』……?」
記事の内容は、こうだった。
労働者の母親が仕事に行っている間、子どもを寝かせておくために阿片チンキを飲ませて中毒死させるという、痛ましい事故が相次いでいるのだという。
「かわいそうだわ……」
顔をしかめる私に、ジャックは厳しい顔で言いそえた。
「手に入りやすいのが仇になってるんだ。阿片チンキは、阿片をアルコールに溶かして水でのばし、シナモンやクローブといったハーブで香りづけたものだ。わずかなら眠気を誘うし、痛み止めにもなるが、多量に摂取すれば死にいたる。常用したなら中毒まっしぐらだ。マデリーンは、この薬の中毒になっているんじゃないか?」
「それは違うと思うわ。ジャック」
私は、彼が手に入れた薬瓶を手にとった。
10cc入りの小瓶の中身は、まだ八分ほど残っている。
「もしもマデリーン嬢が中毒者なら、薬を大量に欲するから大瓶で買っているはずよ。だけど、彼女の部屋にあったのは、この小瓶だけ。きっとサイラント家では、お医者さまを呼ぶのがはばかられる夜の症状を和らげるために、ほんの少しだけあれば良かったのよ」
「マデリーンは、中毒者ではないってことか?」
「そう。それに、眠り続けているのは薬のせいではないわ。お医者さまの見立ても違っていたもの」
これが私の知っている『眠り姫事件』だったら、ジャックが手に入れたこの手がかりと、目覚めたマデリーンの証言を元に、犯人を割り出すことができた。
しかし、明らかに事件の内容が異なっているとくれば、同じ真相に辿りつくとは思えない。
(これは私がプレイしていないルートだけど、元は同じ乙女ゲームだもの。謎を解くためのヒントは、どこかにあるはずよ)
私は、ハンカチの上にのせられたままの青薔薇が気になった。
「サイドチェストに飾られていたのを持ってきたら、不審に思われないかしら?」
「これは、あれとは別のものだ」
「別の?」
ジャックは、トゲが落とされた薔薇の茎をつまんで、くるくると回した。
「ああ。床に落ちていた」
「その薔薇は、招待客一人につき、一輪ずつ渡されたものよ! それが部屋に二輪あったということは、マデリーンを眠らせた侵入者は確かにいたのだわ」
私の頭の中で、手に入れた情報がつながっていく。
それは、網目のように広まって、犯人像を描き出した。
「それはイーストエンドで暮らしているような庶民ではないわ。少なくともナイトレイ伯爵から招待状が届くような身分や家柄の人間よ」
部屋に入ったのに金目のものを盗まなかった理由は、漁っている時間がなかったからではない。
犯人が裕福な人間だったからだ!
「あの夜の招待客のなかに、犯人がいる……!」
昂ぶった私は、椅子から腰を上げた。
しかし、残る謎に気がついて、ふたたび座りなおす。
「それにしても、疑問が残るわ。わざわざお屋敷に忍びこんで、令嬢を眠らせただけなんて。犯人は何が目的だったのかしら?」
私がつぶやくと、ジャックはぽつりとこぼした。
「寝顔を見たかった、とか……?」
「え? ジャックは、誰かの寝顔を見たいと思ったことがあるの?」
私が目を丸くすると、ジャックは失言を取り消そうと慌てた。
「ちがっ! オレは、お嬢の寝顔を見たいわけではなくて、起こすついでに、ごくたまに、ほんのすこし、見ているだけだ!」
「私なんて見て楽しいの? こんな顔なのに?」
思いっきり首を傾げてしまったが、今の私は『アリス』なんだった。
前世の私も、こんな美少女が目の前で眠っていたら、じっくり観察する。
きっと見ているだけで幸せだろう。いわゆる眼福だ。
しみじみ考えていると、ジャックに両肩をつかまれた。
「こんな顔なんて言うな! お嬢は綺麗だ! 化粧しなくても唇が赤いし、まつ毛は丸くカールしているし、目を閉じてるとあどけないし――」
つぎつぎと『アリス』を褒めたたえるジャックが微笑ましくて、私はほっこりしてしまった。
さすがは、私の最推し。どこまでも主人公愛にあふれている。
「ふふ。ジャックって、私の顔が好きだったのね」
するとジャックは、私から手を離して顔を腕で覆った。
「かおだけじゃない……」
「顔のほかって、手とか、足とか?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、指?」
「細かく探ろうとするな! とにかく、不健全なことは何も思ってないからな!!」
ジャックが腕を下ろして叫んだとき、私の耳は複数の馬のいななきを拾った。
「なに?」




