三話 ささやかな逆鱗
アーク校の生徒は、授業が休みでも礼拝堂へ行く。
日曜の礼拝を受けるのだ。お祈りして聖書の話を聞くのだが、熱心に耳を傾けている生徒もいれば、船をこいでいる生徒や自習している生徒もいる。
サボらないのは、礼拝後に振る舞われるティーにありつくためだ。
質素なイレブンジスとは対照的に、豪華なケーキやサンドイッチが山のように用意されていて、これを楽しみに一週間を過ごしている生徒も少なくない。
礼拝堂の扉が閉じられ、中のざわめきが静まったのを確認して、私とリーズは芝生広場に出た。ダムとディーは礼拝に出て、罠の悪魔が現れたら捕まえる任務についている。
(そうでもしないと、ダークと話すのを邪魔してきそうだもの)
今日の天気は曇り。厚い雲が空を覆い尽くし、太陽の形がぼんやりと透けている。
秋風は寒く、リーズが風上を歩いて私をかばってくれた。
抱えるように引き寄せたバスケットには、他の生徒からもらったお菓子を詰めこんでいる。量も種類も豊富なので、ダークとの話が長くなっても大丈夫だろう。
ユニコーン寮に行くと、玄関前にジャックが立っていた。
豪快に寝ぐせをつけて、両手を伸ばしながら大あくびしている。
「おはよう、ジャック。まだ着替えてなかったのね」
「ナイトレイの野郎のせいだ。お嬢が訪ねてくると話したら、オレを部屋から追い出して鍵かけやがった。くっそうぜぇ!」
苛立ちに任せて、ジャックはパンジーが寄せ植えされた鉢を蹴っ飛ばした。
しかし、鉢は揺れこそすれ倒れはしなかった。
「ちっ。この体、本当に非力だな。早く元に戻りたい」
舌を鳴らしたジャックは、双子と正反対のことを言った。
「ジャックは、悪魔にかけられた術を解きたいの?」
「当たり前だろ。なんでこんな無力な頃をやり直さなきゃならないんだ。オレは、子ども時代が一番幸せだったなんてシケたこという男じゃねえ」
「そうよね。小さい時って、できないことがたくさんあるのよね……」
子どもに戻ったジャックは常に無力感を感じている。
体が大きくなる前のダムとディーも同じだったのかもしれない。
子ども特有の苦しさの当事者だからこそ、二人は『元に戻りたくない』のだ。
これまで私は二人を頼りにしてきた。けれど、やはり子どもには任せられないことも多い。寝ずの番や盛り場への出入りは、主にリーズとジャックが担っていた。
夜陰にまぎれてターゲットを断罪する時に、留守番を命じることもあった。屋敷を守ってほしいと伝えてきたが、二人からすれば不服だったのかもしれない。
(でもね、大人は大人で苦しんでいるし、子ども時代を懐かしむ気持ちは人生の短さを知るために必要なのよ)
それを双子に上手に伝える方法を、私はダークと探したかった。
「ダークにも話を聞いてみるわね。彼のお部屋はどこなの?」
「二階の北の角部屋だ。オレとナイトレイの二人で使ってて、周囲の生徒はみんな礼拝に行ったから見られる心配はまずない。紅茶は?」
「淹れてもらいたいけれど、まずは着替えをしないとね。ジャックはお部屋までついてきてちょうだい。リーズは下で見張っていて」
「了解よ」
私は、ジャックと共に二階の角部屋に向かった。
洗濯粉の香りがただよう廊下を端まで進み、固く閉ざされたドアをノックする。
「ダーク、私よ。お話があるの。ここを開けてくれない?」
大きめの声で伝えたが、部屋はシーンと静まり返っている。
「お嬢が会いたいって言ってんのに無視してんじゃねえ! お前が閉じこもっているせいで、オレは着替えてもいないって分かってんのかよ!」
いきなりドアが開いた。白いシーツを角の上から被ったダークが、わしづかみにした制服をジャックに投げつける。
「服だ」
「ぶっ」
顔面に服が直撃したジャックは後ずさった。
私は、とっさにジャックの背に手を当てて支える。
「ダーク、いきなり何するの」
「――」
しらっとした視線を流して、ドアは閉じられてしまう。もがいて服を取り去ったジャックは、噛みつきガメのように口を開いてドアを蹴破ろうとした。
「ナイトレイてめえ!!!」
「落ち着いて、ジャック」
これ以上、怒りを募らせると炎を噴きかねない。幸いにも彼の体は小さかったので、私は後ろから腕を回して止めることができた。
「ダークは私に任せて、お茶の準備をお願い」
「ちっ。ナイトレイ、お嬢には物を投げつけるなよ」
制服を拾い上げてジャックが階下に下りる。
廊下に残された私は、もう一度ドアをノックした。
「ダーク、お部屋には入れてもらえない? 男子がくれたお菓子を持ってきたの。珍しいものもあるから、一緒に食べましょう」
「…………」
返答はない。双子だったら、たとえかくれんぼをしていても、お菓子と聞くなり飛び出してくるんだけど……。
仕方ないので、私はその場で語りかけた。
「最近、あなたに避けられている気がするの。以前のあなたは、自信家で不遜なくらい陽気だし、やることなすこと全てで結果を出すし、私を放っておかなかった。体が小さくなって自信がなくなってしまったの?」
扉の向こうは無音だ。ダークは相変わらず沈黙している。
「見た目がどうなろうと、あなたが社交界の花形であるナイトレイ伯爵なのは変わらないわ。こうなって戸惑う気持ちも分かるし、角を隠せなくて大変だと思うけれど、自分を見失わないで。心細い時は私を頼ってほしいの」
その人の本質は、体ではなく心に宿ると私は信じていた。
だから、環境や境遇を理由に心を追い詰めてはいけない。
心が荒んで、涙の海ができるほど大泣きしたら、溺れるのは自分なのである。
「心配や不安は、他人に話すと和らぐの。こんがらがった頭の整理になるのよ。私、あなたがどんな風に考えているのか聞きたいわ。元に戻りたい? 戻りたくない? それだけでも教えてくれないかしら」
「…………アリス」
やっと答えてくれた。
あの頃のようにシーツを被った彼が──ウサギが向こうにいると思うと、私の胸はジンと熱くなる。
「なあに、ダーク?」
「このまま会わずに戻ってくれないか。今の俺では、君に酷いことを言いそうだ……」
「言って。私はあなたと違って、キスで人の心を覗けないのよ」
長い沈黙があって、それからようやくダークは吐露した。
「……元に戻らなくてはならない。今のままでは、君と顔を合わせられない」
「その姿だって素敵だと思うわ」
「これが?」
ゆっくりドアが開けられた。シーツを被って立つダークは嗤っていた。
布の間から覗くサファイヤ色の瞳がギラギラ光っているのを見て、私はしまったと青くなる。
彼の口元が弧を描いているのは楽しいからじゃない。
怒っているのだ。私の一言が、彼の逆鱗に触れてしまった。
ダークは私の腕を掴み、強引に引き寄せた。
「この醜い姿の、どこが素敵?」
細い指が私の頬に触れる。そこから肌を撫でるように下がっていき、首元で結んでいたリボンを引っ張った。かがめということだろう。
キスで私の本音を確かめるつもりなのだ。
ダークの気が晴れるなら、それでもいい。
私は前傾姿勢になって目を閉じた。
顔が近づく。吐息が浅くなる。
これまで何度も彼とキスをした私は知っている。
この先に、たまらなく幸せな触れ合いが待っているって。
でも……結局、唇が触れないまま気配が離れた。
「──できない」
え?
びっくりして目を開いた私を、ダークは今にも泣き出しそうな顔で見つめていた。
「君に悪魔の気持ちはわからない」
とんと体を押された。
よろめいた私の鼻先でドアが閉じられ、鍵をかける音が無常に響いた。
「どうして……」




