一話 わたしの(昔の)家族
――ピッ、ピッ、ピッ――
電子音が鳴り止まない。
意識も体も眠っているのに、絶えず聞こえてくる。
「――ちゃん、起きて」
お母さんの声がする。というと、ここは実家かもしれない。
普段は一人暮らしのアパートと会社を往復する生活を送っているが、年末年始とお盆だけは両親が暮らす家に帰省していた。
暑くも寒くもないけれど、今は冬だっけ? それとも夏? 何年の、いつ?
ぼんやり考えていると左手をぎゅっと握られた。
温かくて柔らかい。お母さんの手だ。
「今日が何の日か分かる。みんな、あなたを待ってるのよ」
みんな?
「会社の方からもお電話をもらったの。復帰するのを待ってるからって」
復帰って、何のこと?
「生きているだけでも奇跡なのは分かってるわ。でも、お母さんもお父さんも、もう一度●●の声を聞きたいの。だから、頑張って……」
涙ぐんだ言葉を聞いたら唐突に思い出した。
人生が変わった、あの夜のことを。
サービス残業で帰りが遅くなった私は、会社からの帰り道、車道へ飛び出した子猫を助けようとしてトラックに轢かれた。
体が跳ね飛ばされた感覚を今でも覚えているくらい、大きな衝撃だった。
走る車は凶器だと言われる意味を、この時ほど味わったことはない。
だって、私はその事故で死んでしまったんだから。
それなのに、どうしてお母さんは私のそばで泣いているんだろう。
まるで医療ドラマのようだ。
事故にあった登場人物が、意識不明のまま病院のベッドで眠り続けているみたい。
これは夢?
それとも――。
「はっ」
目蓋を開けた私は、ゆっくりと起き上がった。
カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、簡素な部屋を照らしている。
消毒液の匂いもしないし、心電図の音もしない。するはずがない。
なぜならここはゲームの中。
私は乙女ゲーム『悪役アリスの恋人』の世界に転生したのだ。
今の名前はアリス・リデル。血のように赤い髪と瞳を持つ美しいヒロインは、ヴィクトリア朝を模した架空の大英帝国の男爵令嬢だ。
先ほどの夢は、前世の記憶から脳が作った勝手な幻だろう。
それにしては、やけに現実的だったけれど……。
「お母さん、元気だといいな」
変な夢を見たのは、きっと心が不安定になっているせいだ。
(ダムとディーが元に戻りたくなかったなんて)
術を解きたい私とは正反対に、二人は大きいままでいることを望んでいた。
名無しの森で彼らの切実な気持ちを聞いた私は、答えを保留にしたまま今に至る。
(二人の気持ちは尊重したいわ。でも、今のままではいつ悪影響があるか分からないし、難しい問題ね)
窓際の椅子では、腕を組んだリーズがうたた寝している。
こっそり部屋を抜け出して一階の水場で顔を洗っていると、チャールズがやってきた。
「おはようございます、チャールズさん」
「おはよう。今日は早いな」
汲んだ水で顔を洗い、豪快に袖で拭くチャールズの目は真っ赤だった。
「徹夜でもなさったんですか?」
「……ロビンスが、また朝方まで帰ってこなくて……」
呟いたチャールズは、はっとして口に手を当てた。
「夢中で読書していただけだ。急ぐので失礼する」
追及を避けるようにチャールズは水場を出ていった。
(ロビンスさんを心配して起きていたわけね)
墓参りは年に数回でいいはずだ。その割に、名無しの森の獣道が開けていたのが気になる。あそこで、一体何が行われているのだろう。
考え込んでいると、こつんと後頭部を小突かれた。
「お嬢、どこに行ったのかと思ったわよ」
リーズだった。彼は勝手に部屋を離れた私を叱る。
「今はトゥイードルズも頼れないんだから気をつけてよ」
名無しの森に入った夜以降、双子には小さな変化が起きた。
私への態度がものすごく過保護になったのだ。
具体的に言うと、授業で使う物を全て用意してくれたり、進路に水たまりがあるとお姫様だっこで運んでくれたり、食堂ではどちらかが先回りして、私が食べたい料理を盛り付けてテーブルで待っていてくれたりする。
そして、こう言う。
『『アリスは笑ってくれるだけでいいの』』
完全にスパダリだ。
最終的に、私と一緒のベッドで眠ろうとしたため、リーズが『共寝禁止令』を出した。
ダムとディーが護衛につくのは昼間だけ。夜はリーズと交代する。
そうしたら、二人は急にスンとして、チャールズの隣の部屋を使っていた上級生と交渉して譲ってもらった。そして、今は二人きりで寝起きしている。
(どうしてこうなっちゃったのかしら)
二人の気持ちが分からない。まだまだ手がかかると思っていた子どもが、急に一人暮らししたいと言い出したら、こんな気持ちになるかもしれない。
今までだったら逐一気持ちを教えてくれたじゃない。そう恨めしく思う。
部屋に戻って着替えた私は、教科書を持って廊下に出た。
壁に背をつけて待っていた双子は、リーズから奪うように私を引き寄せた。
「またね」
「夜にね」
「行ってらっしゃい。居眠りしちゃだめよ~」
見送るリーズはお母さんみたいで、私は悩んでいることも忘れて笑った。




