四話 告白は名無しの森で
深夜の、幾億もの星がまたたく空の下。
黒いワンピースに身を包んだ私は、黙々と運動場を歩いていた。
寮の消灯時間は二時間前に超えた。生徒の寝息が深くなった頃合いをみて部屋を抜け出し、目指すのは名無しの森だ。
枯れ草の香ばしい匂いが夜風に乗って漂ってくる。潮の匂いもするはずだが、島暮らしに慣れた鼻では感じられない。
十分に闇へ慣らした目は、ランタンを使わなくても周囲がよく見えた。今晩は空気が澄んでいて特に見えやすい。星の光が味方をしてくれている。
思わずダークを思い出したが、彼には今晩の計画を伝えていなかった。
ジャックにだけ知らせると、彼は自ら待機すると申し出た。小さくなってしまった今、森に分け入る行軍についていくと足手まといになるからだ。
(ダークとジャックは、自分の身を守ってくれればそれでいいわ)
私は意識を前方に戻す。
ボーダーニットに鎖を巻いたリーズが先陣をきり、黒いシャツで闇支度した双子が左右を歩いて全方位からの攻撃に備える。
足元に生えた草の影に目を凝らすが、妙な動きはない。
ロンドンには人に化ける上級悪魔と、上級に使役される低級の悪魔が跋扈していた。悪魔に狙われやすい私は、街中を歩くだけで遭遇することもしばしば。
けれど、この島に来てから一度も悪魔の影を見ていない。私たちの様子をうかがいに来る気配もないので、アーク校の周辺には存在しないと考えるのが自然だ。
(罠の悪魔は、たった一人で何をしているのかしら)
錆びた鎖の柵が見えてきた辺りで、リーズが心配そうに振り返った。
「もうじき名無しの森の入り口よ。森は広大で、古城の三倍はあるわ。本当にアタシが行かなくて大丈夫?」
「ダムとディーがいるから平気よ。リーズにはもっとも重要な役目を頼むわ。朝まで私たちが運動場に戻って来なかったら……」
「ジャックを呼んで、烙印の炎で森を焼き払って助けにいくわ。お嬢たちに比べたら、孤島の自然系なんて無価値も同然だもの」
森で行方不明者が見つからないのは木々が邪魔だからだ。ならば、焼けばいい。
ジャックの異能である『瞋恚の炎』は憎きものだけを焼き払うので、決して私たちを傷つけない。
「お嬢、くれぐれも気を付けてね。森にいるっていう怪物が悪魔なのか、人間なのか、それとも他の何かなのか知れないんだから」
「そのためにトゥイードルズがいるのよ」
私と双子は手を繋いで円くなった。
「「じゃあ行くよ、アリス」」
ダムとディーの泣き黒子が、まるで黒インクを垂らしたようにツーッと垂れていき、頬の中心で広がって薔薇の紋章を描き出した。
繋いだ手の先から生暖かい空気が伝ってきて、前髪をふわりと浮かせる。
体を包む空気はどんどん圧縮され、密度を増していき、やがて――
パチン!
輪ゴムで弾かれたような衝撃が走った。
それと同時に、体が磨りガラスのように透けた。肌や髪だけでなく、身に着けていた衣服や靴、ポシェットまでも透明に変わって、周囲が透けて見える。
これはトゥイードル兄弟の異能『かくれんぼ』だ。
双子本人だけではなく、手を繋いでいる人間も見えなくすることができる。
「アタシにはまったく見えないわ~。お嬢、まだそこにいるのよね?」
「ええ。行ってくるわね」
私たちは手を離さないように気を付けながら、鎖を乗り越えて進んでいく。
折り重なった木々のせいで夜空が見えないので、星から向かう方角は割り出せない。覚えた地図と道の曲がり具合から、だいたいの現在地を頭に描いていく。
進むのに難儀するかと思っていたが、道は意外にも整っていた。伸びた下草がせり出しているが、地面は踏み固められ、邪魔になる枝は誰かが手折った後だ。
耳を澄ますとフクロウの鳴き声が聞こえてきた。かなり遠い。猛禽類は警戒心が強いので、人間が行き交う道にはあまり近づかない。
(立ち入り禁止の森なのに、ここはよく人が通るようね)
入れるのは監督生のみと聞いていたが、それ以外にも出入りがありそうだ。
「アリス、家がある」
先を進んでいたダムが立ち止まった。
道の先には古い平屋があった。見えるだけで五軒もだ。
「廃村のようね」
平屋は古城と同じ石造りで、壁が崩れている。蔦が屋根まで覆い隠しているので、住んでいる者はいないだろうと思われた。
――少なくとも、人間は。
警戒心を強める私の背後に、ディーはぴったりと立つ。
「アリス、行く? 戻る?」
「行くわ。罠の悪魔を見つけ出して、さっさと術を解いてもらわないと。小さくて可愛いダムとディーを返してもらうわよ」
勇んで一歩を踏み出すが、ダムは動かなかった。
「どうしたの?」
「……」
無言で立ち尽くすダムに、ディーが悲しそうに告げる。
「できないね、ダム」
「できないよ、ディー」
「きゃ」
同時に手を離した二人は、前後から挟み込むようにして私を抱きしめた。
驚く私の耳に、淡雪のように切ない声が降ってくる。
「「僕らは元に戻りたくない……」」
「え?」
「「もう小さくなんてなりたくない」」
思わぬ告白に、私は目を見開いた。
彼らの心の声を、初めて聞いた気がしたのだ。
私は、罠の悪魔によって不本意に成長させられた状態から抜け出すのが、ダムとディーの望みだと疑わなかった。けれど、そうではないらしい。
彼らが本気であることは、私を抱きしめる腕の強さから伝わってくる。
「で、でも、元に戻らないと何が起こるか分からないわ! 少しずつ大きくなった方が人間らしくて自然よ。成長しきる前しかできない経験もいっぱいあるわ」
「僕らは人間らしくなくたっていい」
「アリスをこうして抱きしめられなくなるくらいなら」
二人は私の頭に頬をくっつけて、仔猫が甘えるような声で囁いた。
「アリス、すき」
「だいすきだよ」
好き、大好き。
それらは、いつも彼らが口にする親愛の言葉だ。
聞きなれた、いつものじゃれあい。それなのに。
(どうして、私はときめいているの?)
ドキドキと高鳴る鼓動が示してる。私は彼らを意識しているって。
二人は家族なのに。大切な仲間なのに。
恋しているみたいに胸が苦しいのは、なぜ?
自分の変化に戸惑っていると、平屋の脇にある低木が揺れた。
「誰っ!?」
とっさにポシェットに手を入れる。ダムとディーは抱擁を解いて服の下に手を突っ込んだ。武器を握る私たちの視線の先で、低木はガサガサと音を立てる。
木を手でよけて、ぬっと顔を出したのは、
「こんなところで何してるの?」
額に葉っぱをくっつけたロビンスだった。
手にはランタンを手にしているが、制服を身に着けているので、偶然私たちを見かけて追いかけてきたわけではなさそうだ。
「こんばんは、ロビンスさん。あなたこそ、ここで何をしていらっしゃるのですか?」
「この森で迷子になった生徒を捜しに来たんだ。さっき見つけて寮へ帰したからもう大丈夫。おれもこれから戻ろうと思ってたんだよ」
森で迷子になっていた生徒は、夕方頃にライオン寮へ戻っている。ロビンスが助けてくれたと言っていたので、嘘はついていないようだ。
しかし、それはロビンスが真夜中まで名無しの森にとどまっている理由にはならない。
私は、双子に武器を抜かないようにと目で合図して、前に出た。
「私は、ロビンスさんが名無しの森に入っていくのをチャールズさんと目撃して、何があるのか気になってしまいましたの。ここには何があるのですか?」
「見てもらった方が早いかも。ついてきて」
ロビンスはローブをひるがえして道案内を始めた。
「城が学校になる前は、たくさんの島民がいたんだよ。ここは彼らの村だったんだ」
木々の間を抜けて、崩れかけた家の間を通る。道の脇に井戸があるが、釣瓶や滑車は朽ち果てて腐り落ちていた。
私は視線をきょろきょろ動かして、周囲に危険がないか確かめる。
(罠の悪魔が出てきたらロビンスさんも守らないと)
「ここだよ」
ロビンスが立ち止まったのは、荒れ果てた墓地だった。手ごろな石を立てて墓石にしてあり、その数は十数基にも及ぶ。彫られた故人の名前は風化していて読みとれなかった。
墓地の中央にある一際大きな岩の前には、赤い花が添えられていた。
「誰かがお参りしていますね」
「花を供えたのはおれだよ。監督生は入島者のお迎えと墓地の管理をしなければならないんだ。ここは古城の持ち主の貴族と島民、代々アーク校で働く人たちのお墓なの」
現在、アーク校で料理を作ったり、芝生の整備をしたりしている校務員たちが最後の島民だと言う。長い月日のうちに人口は減っていき、今では老人ばかりになった。
「監督生は大変ですね。でも、真夜中に墓参りに来る必要はないのでは。暗い夜道にランタンだけでは危ないです」
「……そう、だよね。夜に来るのは止めようかな。心配してくれてありがとう」
あからさまな作り笑いでロビンスは言う。
(何を隠しているのかまでは、突っ込まないであげましょう)
少年が夜中に寮を抜け出してすることと言ったら、飲酒か喫煙か賭博だ。
悪魔に関係ないのなら、わざわざ私が暴いてどうこうする問題ではない。
「そろそろ帰りましょうか。ロビンスさんも一緒に寮へ戻りませんか?」
「おれはもう少し森を歩いてから行くよ」
「お気をつけて。ダム、ディー、行きましょう」
私は双子を連れて墓地を離れた。
背中に感じるロビンスの視線が痛い。警戒もするだろう。ここでどんな悪さをしているか公にされたら、彼の監督生生命は終わりだ。
学校は小さな社会である。権力の座から転落した人間は冷遇される。一刻も早く逃げだせればいいが、ここは孤島なので脱出は難しい。
背後では、武器から手を引いた双子が小声で話している。
「ランタン、さっきまでついてなかったね」
「蝋燭、さっき点けたばかりだったね」
そういえば、ロビンスの手にあったランタンの蝋燭は、点火したばかりのように長かった。暗くなってから点けたのなら、かなり短くなっているはずだ。
つまり彼は、私たちに遭遇するほんの少し前に蝋燭に着火したことになる。
明かりもない真っ暗な森の中で何をしていたのだろう。
おもむろに振り返るが、すでに墓地は見えなくなっていた。
朽ちた家々は、ステレオスコープを覗いて楽しむ立体写真のように歪んで見えた。




