一話 悪魔が人を魅入るわけ
授業が始まって一月もすると、私も双子もすっかり学生生活に慣れた。
他の生徒との関係も良好だ。それがよく分かるのが十一時の紅茶の時間である。
私たちが食堂へ顔を出すと、ライオン寮の生徒がわっと集まってくる。
「アリス、この椅子へ座ってよ」
「ありがとう、フライさん」
「紅茶はダージリンでいいよな!」
「ありがとう、バッタさん」
最初に私をいじめてきたフライとバッタは、率先してお茶の支度をしてくれる。
それ以外の生徒も、どこから手に入れたのかビスケットやパイを持ってきては「よければ食べて」と置いていくので、長テーブルはいつもお菓子でいっぱいだ。
「どれもおいしそうだわ」
手近にあったクッキーをつまむと、さっくりした食感にバターがふわっと薫った。
甘いものは幸せの味がする。食べている間だけは、頭の中をぐるぐるしている悩みや苦しみを忘れられるもの。
にこにこ顔でお茶を楽しんでいると、近くに立って警護していたダムとディーが、両側の席にどかっと腰かけた。そして、無言で生徒たちを睨みつける。
その迫力たるや寺院の山門に安置された阿吽像のよう。
凄まれた生徒たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げて行ってしまった。
「ダム、ディー。そんな顔をしていたら友達ができないわよ」
「「いらない」」
「悲しいこと言わないで。友達がいるって、本当に楽しいんだから」
私にウサギがいてくれたように、二人にも打ち解けられる存在を見つけてほしい。
友達との思い出は、悲しい時や苦しい時の支えになる。もしも双子が一緒にいられなくなる日が来ても、他に拠りどころがあれば少しは気が休まるはずだ。
双子はテーブルに肘をついて、感情の見えない目を私に向けた。
「僕は、アリスがいればそれでいい」
「僕も、アリス以外はどうでもいい」
二人にとって『アリス』はそれだけ大きな存在なのだろう。
(それじゃあ、私が他の誰かの物になったら、あなたたちはどうなっちゃうの?)
永遠はない。人は、今ある形がずっと続いていくと信じてしまいがちだけれど、必ずどこかに歪みが生じる。
同じであり続けるには労力が必要だし、変化を促してくる外圧に打ち勝てるのも、ごく少数の幸運者だけだ。
「私以外とも仲良くしてね」
「チャールズとはしてる」
「ロビンスとも遊ぶ」
「さっそくお友達ができたのね。すごいわ!」
大げさに褒めると、精悍な顔立ちがほんのり桃色に染まった。
友達作りというのは巡りあわせだ。自然に仲良くなって、気づけば友達としか呼べない関係になる。それに気づくきっかけは監督生でもいい。
ダムもディーも、人付き合いは一年生だ。ゆっくり見守ろう。
二人は図体こそ大きくても心は子ども。
戦闘では強くても、神様に恋をするように盲目的で、それでいて明日には別の遊びに魅入られるような、無邪気で無垢な普通の子なのだから。
午後の悪魔学の教室で、私を挟んで座った双子は居眠りしていた。
教鞭をとる校長は、やる気のない生徒は放っておく方針なので怒られる心配はない。生徒の半数も、机に突っ伏したりうつらうつらと船を漕いだりしている。
私も少しは眠いが、授業内容が気になるので気合いで目を開いていた。
悪魔について知れる機会はそうそうない。
大英帝国で起きる凶悪事件には、悪魔が関わっているものもある。
相手を知る、それすなわち、対抗手段を増やすということ。
悪魔学は、まさにリデル男爵家に必要な学問だった。
「フー。つまり、悪魔は創世の頃より気まぐれに人間社会に入り込んでは、幸せに暮らしていた人類を脅かしていたということじゃ……」
校長の口調は相変わらずのんびりしている。
話がひと段落したのを見計らって、眼鏡をかけたライオン寮の生徒が手を上げた。
「悪魔はそのタペストリーのような恐ろしい風貌をしているのですよね。人間社会に来たら騒ぎになって、入り込む隙がないのでは?」
「よい質問じゃ。なぜ悪魔がたやすく人間に紛れ込めるのか。それは人間の姿に化けられるためでのう。それぞれの悪魔によって個性はあるが、まったく人の目には見分けがつかない容姿になれるんじゃよ。こんな風に……」
黒板に貼り付けられたタペストリーがめくられる。
そこには、ラグビー選手のようにガッシリした人間がチョークで描かれていた。
顔つきは、重なった悪魔の絵にどことなく似ているが、どこからどう見ても人間だ。
「人間の姿をしておっても悪魔は悪魔。本性は実に醜悪で、情け容赦がないんじゃ」
私は〝薔薇の悪魔〟を思い出した。
リデル男爵邸に侵入して両親や使用人を殺し回ったその悪魔は、醜悪な本性を隠して人に化け、ベルナルド・リデルと名乗っていた。私の叔父として社会的地位も得ていた。
次に出会った〝鏡の悪魔〟はもっと巧妙で、悪魔であることを隠してシャロンデイル公爵と結婚した。彼女が悪魔だということは、公爵以外は誰も気づかなかった。
ダークは、彼の父親が妻に悪魔を降臨させて生まれた子なので、広義的にいえば彼だって悪魔だろう。
人間社会にこれほど悪魔が入り込んでいるのに、私は蘇らされるまでちっともその存在を知らなかった。残念ながら、父は私にラテン語を叩き込んでも、悪魔の知識は付けてくれなかったのである。
リデル男爵家の一人娘でありながら、まるで目隠しでもされていたように悪魔だけは知らずに育った。両親も使用人も家庭教師も、なぜかそれだけは教えてくれなかった。
今さら首を傾げても理由は分からないけれど、やっぱり不思議だ。
「フー。さて、次の話にいこうかの」
校長は、めくりあげていた布を下ろして、教卓に載せられていた羊の頭蓋骨を持ち上げた。うずを巻いた大きな角はアンモナイトのようだ。
「人に化けた悪魔を見分けるには、影を利用するんじゃ。悪魔はどれだけ上手に人間を装っていても、角の影だけは消せないのでな……。君たちも、怪しい人物がいたら影を確かめなさい。そこに角があれば悪魔じゃ。見つけたらすぐに始末せねばならん。やつらは心がない。人に紛れていても、人を愛すことはないんじゃ」
「それは違いますわ」
うっかり口に出したせいで、前の席の生徒たちが振り向いた。
地獄耳らしい校長は、目を覆い隠すふさふさの眉毛を上げて私を見る。
「異論があるようじゃな……」
「はい。悪魔が人に化けるというのは興味深いです。けれど、心がないというのは信じられません。人に紛れて暮らしているなら、たくさんの人間と出会っているはずです。そのうちの誰かを愛してもおかしくないと思われませんか?」
私はこれまでに二人の悪魔から執着されている。
片方は愛ゆえに私の家族を壊し、片方は愛を証明するために私と家族になろうとしている。
悪魔に心がないのなら、そもそも執着しないはずだ。
ただ一人の人間に愛されたいなんて、望まないはずだ。
「おお、恐ろしい。それはとても危険な思考じゃ……」
校長はかぶりを振って、水キセルを吸うように口元に手を持っていった。
「悪魔は、愛を信じたいと思う人間の心を利用する。人間社会に紛れ込み、いずれは地獄を支配する魔王ジャバウォックを降臨させ、地上を手に入れるのがやつらの目的なのじゃから。教科書の三百六十六ページを開きたまえ……」
言われて、私がページをめくっていくと、
「何よ、これ」
見たこともない異形が現われた。
頭には枯れ木のような長い二本の角があり、サーベルを思わせる尖った牙から血を滴らせ、コウモリみたいな翼には頭がもげた死体をひっかけている。
鋭い爪で牛や馬を握っているが、特に気味が悪いのは体だ。蛇のように長く、硬そうな鱗でびっしりと覆われていた。
爬虫類が平気な私でも見ているだけでゾッとする。虫やカエルが苦手な貴族令嬢ならページを開いただけで卒倒してもおかしくない。
ページを開いた他の生徒たちも、顔を青くして絶句していた。
平然としているのは校長だけだ。
「覚えておくのじゃよ。ジャバウォックが地上に降臨する時、世界は地獄へと変わる。ノアの方舟のような救済はなく、生きとし生ける者は全て死ぬ。悪魔をのさばらせないように、悪魔を見分ける目を持つ英国紳士たれ。そして、人々を守るのじゃ。他に質問は?」
「「はい」」
いつの間にか居眠りから覚めたダムとディーが、揃って手を上げた。
「他人の体を大きくする悪魔はいる?」
「他人の体を小さくする悪魔はいる?」
あまりに直球の質問だったので、私は「先生には敬語で話しましょう」とお説教するタイミングを逃した。
(でも、ナイスアシストよ。二人とも!)
校長が罠を仕掛けた悪魔を知っていたなら、見つけ出すための大きな一歩になる。
私は期待に満ちた目を校長に向けた。
校長は、だるだるの首をぐっと伸ばして天井を仰ぐ。
「フー。それは……」
「それは!?」
校長は言葉を溜めに溜めて、こきっと首を曲げた。
「はて、最近物忘れが酷くなってのう」
華麗なボケに、私はずこーっと机に倒れた。
半分くらいはそういう展開もあるかなと思っていたけれど、まさかここまでテンプレな台詞をお見舞いされるとは!
寄宿学校に来てからまだ序盤だし、仕方ないといえば仕方ない。
簡単に苦難を乗り越えられては、ストーリーの尺が短くなってしまう。焦らして焦らして、やっとヒントが掴める方が乙女ゲームとして面白いのは事実だ。
(でも、でも! 本当は、ちょっとだけでいいから、新情報を拝みたかったー!)
涙を堪える私をよそに、校長は言葉を続けた。
「儂は思い出せんが、探せば意外といるかもしれんのう。図書室で調べてみなさい。あそこには世界中から集めた悪魔に関する書物が揃っているのでな……」
図書室!
その手があったかと私は、ダム、ディーと顔を見合わせた。
ロンドンで公文書館に行くと新情報が見つかるように、アーク校では図書室に攻略の鍵があるのかもしれない。




