五話 アリスと悪魔学
グラッとベッドが傾いで、私は飛び起きた。
「なに!?」
枕の下の拳銃を握って、辺りを確認する。
扉、問題なし。窓、問題なし。
侵入者の姿はないが、たしかに揺れを感じた。
ふと視線と落とすと、私の両脇にダムとディーが突っ伏して眠っていた。
狭いベッドに三人で川の字に並んでいるので、ぎゅうぎゅう詰めだ。
先ほどの揺れは二人が寝返りを打った振動だったみたい。
真夜中に見張りを交代したはずだから、明け方になって力尽きたのかもしれない。頑張ってくれた二人の寝顔を見ていると、胸がほっこり温かくなった。
「ダム、ディー、ありがとう」
呟くと二人の目蓋が震えた。
やがて水色の瞳が私の姿を写し、幸せそうに細まる。
「「おはよう、アリス」」
「おはよう。起床時間には早いけれど、部屋に戻った方がいいわ」
のっそりと起き上がったダムとディーは、視線を合わせてコクリと頷いた。
「毎日、チャールズの部屋に戻るのは面倒」
「え?」
「僕らがアリスの部屋に引っ越せば明朗」
「はい?」
二人は、シュタッと床に下りると、風のような速さで向かいの部屋の扉を開けた。
「「チャールズ、僕たちアリスの部屋に行く!」」
「駄目だ! 姿が見えないと思ったら、アリス嬢の部屋に行っていたのか!!」
怒鳴り声が聞こえてきたので、私はそうっと扉を閉めた。
(ダムとディーに、今は大人だって自覚してもらわないといけないわね)
今までのように私にひっついていたら不埒な男性扱いをされてしまう。
これからの二人との関わり方に頭を悩ませながら、私は朝の支度をすることにした。
伝統的なイングリッシュブレックファストを食べた私たちは、校内の地図を広げて廊下を進んでいた。
高い天井に音が反響するため、行き交う数よりも大勢の生徒がいるように錯覚する。
「ここね。悪魔学の教室は」
前を歩いていた生徒たちが吸い込まれていったので、お目当ての部屋はすぐ分かった。
が、教室に入ってすぐ違和感を覚えた。
「本当に、ここ?」
黒板には羊の角を持つ半裸の大男のタペストリーが掛けられ、長い教壇の端には天文模型ならぬ地獄模型が鎮座している。
壁の棚には、装丁が剥げた本や得体の知れないホルマリン漬けの瓶が並んでいた。
はっきり言って悪趣味だ。他の生徒たちも不安げに教室を見回している。
アーク校では悪魔学が必修課目になっており、初級、中級、上級クラスに別れている。
編入生扱いのダムとディーは特別に初級クラスに入れてもらったが、やはり目立つ。
希望者は自由に聴講できるので、上級生が何人かいるのが救いだ。
「アリス、こっちに座ろう」
ダムに言われて、私は教室の最後尾に座った。
ためらいなく左右についたダムとディーに、教室中の視線が集まる。けれど、それをものともしないでリラックスしている。
「揃っているようじゃな」
始業の鐘と同時に、キャタピラ校長が現われた。
(悪魔学の担当は校長先生なのね)
校長はローブを引きずって教卓に歩み寄り、水キセルを吸っていた時と同じのんびりした口調で話し出す。
「フー……。これから諸君には、悪魔についての見識を深めてもらう。悪魔研究家の儂自ら教鞭を取るのはこのアーク校だけじゃ。悪魔に魅入られ、人の道を踏み外し、堕落せんようによく学びなさい。ここの教科書を一人一冊ずつ持って行くように」
配られた本は何代も前から使われているらしく、なめし皮の装丁が痛んで小口は変色している。
「今配った教科書には、地上に影響を及ぼす悪魔の全てが書かれておる。諸君には卒業までにこの内容をすべて暗記してもらう。期末にはレポートと試験もあるのでな……」
テストと聞いて一部の生徒がため息を吐いた。試験はいつの時代も生徒の敵だ。
「さっそく序文を誰かに読んでもらおうかのう……やりたい者は?」
生徒はシーンと静まり返った。
(無理もないわね)
序文はラテン語で書かれていた。初級クラスの大部分を占める新入生は、これから古典語を学ぶので歯が立たないのである。
私も黙っていると、松ぼっくりみたいに顔がぼこぼこした生徒が手を挙げた。
「校長先生、女子生徒に読んでもらってはどうですか?」
「初回の発言時には名前を言ってくれるかのう」
「フライです。この学校に女子が入るのは創立以来初めてだと聞きました。恐ろしい悪魔の習性も、女性の声なら興味深く聞けるはずです。他のみんなも聞きたいよね? どうかな、バッタくん」
「賛成です、校長先生! 女子でも机を並べている以上は平等なのに、監督生じきじきに特別扱いしてもらっているんだし、できるだろ?」
跳ねるような声でバッタは突っかかってきた。
味方を得たフライは「ほら、早くやってよ」と、厭味ったらしく私を急かす。
「それともできない? やっぱり女子には難しいのかな。こんな役立たずが寮弟なんて勿体ない。監督生には、別の優秀な生徒が付くべきだと思うな、僕は」
(ああ、そういうことね)
この二人はライオン寮の生徒だ。チャールズの寮弟になった私を妬んで、引きずり降ろすために校長の前で恥をかかせようとしている。
くだらない。が、無視するのも性に合わない。
私は教科書を手に立ち上がり、すり切れた文章を指でなぞった。
「――はじめに。聖書やさまざまな教典に現われる悪魔は、現実に存在し、人間社会に溶け込んでいる。それらは時に人間の生命まで蹂躙し、未来永劫に渡って苦しめる印を植え付けるだろう――」
すらすら音読していくと他の生徒たちがざわついた。
私を推薦した二人なんて「なんで読めるんだ」「女なのに!」と動揺している。
(愚かな人たち。私がラテン語ごときでつまずくはずないじゃない)
古い文献の多くはラテン語だ。リデル邸に収蔵された数々の貴重な書を読み解けるように、父は私に男子以上の教養を与えてくれた。
これくらい文章であれば、赤子の手をひねるより簡単に読み上げられる。
「――悪魔は地上だけでなく並行世界を自由に移動でき、おぞましく醜い本性を隠して人間、その他の動物に擬態する術を心得ている。我々人類は、悪魔の存在を認めなければならない。悪魔への対抗は認識するところから始まるのである」
「素晴らしいのう……」
見事に読み切った私を校長は褒めた。双子も「すごい」と手を叩いてくれる。
「見事な音読じゃったぞ。褒美をやろう。悪魔を調伏する時は『デウス・オルド・セクロールム』と唱えるがよい。悪魔の跋扈する時代を変えるという意味じゃ」
「覚えておきますわ」
フライとバッタは悔しそうに前に向き直った。
これで寮弟の座を諦めてくれたらいいけれど……。
その後も、悪魔の基本的な生態を読み解いて授業は終了した。
次の教室へ移動するため廊下に出ると、後ろから呼び止められる。
「待てよ」




