五話 『DRINK ME』の罠
郊外に出るとぐっと人が少なくなった。
旅行者の姿はなく、代わりに籠を手に市場へ向かう女性たちや休憩時間を過ごす男性たちがいる。路肩に集まった子どもたちは追いかけっこをして遊んでいた。
平和で、穏やかで、幸せな光景だ。
「ここで下りな」
馬車が止まったのは、中心部から離れた小さな港だった。
凪いだ海の彼方に、緑に覆われた孤島が見える。
遠目で見えづらいが、中央辺りに石造りの城塞があるようだ。
「あれがアーク校のある島だ。この辺りじゃノアの方舟って呼ばれてる」
「孤島にある学校なのですね……」
船で渡らなければならないような不便な場所にあるとは思わなかったので、私は少々面食らった。
「驚くのも無理はねえ。アーク校は古城をそのまま校舎として使ってるんだ。わけありの貴族令息が簡単に逃げ出せないようにな」
馭者は「気を付けろよ」と言い残して去っていった。
トランクを放り投げるように下ろした荷馬車もとって返し、猛烈な勢いで回る車輪が砂埃を巻き上げた。
むせたリーズは拳を振り上げて抗議する。
「ちょっとぉ! レディに対して酷いじゃないの!」
「お前はレディじゃねえだろ。双子、砂が入るから目を閉じてろよ。お嬢は――」
トゥイードルズの鼻と口を手で覆ったジャックは、薄目で私の方を見て眉を下げた。
私がダークに抱き寄せられていたからだ。ダークは私が砂埃に巻かれないように、胸元に顔をつけてかばってくれていた。
「アリス、平気かい」
「大丈夫よ、ありがとう。あら?」
ボートが並ぶ浜の方から、丸坊主の男の子が走ってきた。
「お客さん、急がないと最後の便が出発するよ! 今日を逃すと入学式には間に合わないんだ。ここで帰るっていうなら止めないけど。今日も二人帰ったしね!」
「入学予定者が、なぜこんな土壇場でお帰りになったんでしょうね?」
「孤島に閉じ込められたくないって!」
遊びたい盛りの少年たちにとって、逃げ場のない島での学校生活は懲役刑みたいなものなのかもしれない。
(ダムとディーはどうかしら?)
双子は、手を繋いで海を眺めていた。水色の瞳には遠い島影が映る。
不安がっているようにも、試練に立ち向かう勇気を携えているようにも見えた。
新しい環境に飛び込むのは誰だって緊張する。これも経験だ。
私は膝をかがめて、返事を待つ男の子に伝えた。
「ここにいる六人を乗せてもらえるかしら?」
「こっちに来て!」
男の子の案内で木造船に乗り込んだ私たちは、古びたベンチに座った。
防腐のために重油をしみ込ませた船体は、日焼けして独特の灰色になっている。
私たちの他に客はおらず、船内はがらんとしていた。座面が荒れてチクチクしているのに手入れされていないことからも、利用者は少ないと想像がつく。
生徒が移動する時期だけ運航している、というところだろうか。
帆を張って出航した船は、西向きの風に乗ってどんどんスピードを増していく。
波を乗り越えるたび、ザブンという音に合わせて船体が上下に揺れる。
倒れそうになった私は、腕をぴんと伸ばして欄干に掴まった。
(港では凪いでいるように見えたのに!)
ふっと船が陰った。巨大な鳥がちょうど真上を飛んでいるせいだ。
「ねえ、みんな。あれは何かしら?」
しかし返事はない。
船内に視線を戻すと、ダークとジャックが青い顔で口元を押さえていた。
ダムとディーも、ぐったり肩を寄せ合っていて、平然としているのはリーズだけだ。
「どうしたの?」
「きもち……」
「わるい……」
「船酔いしたみたいね」
揺れをものともしないリーズは、双子の背をさすった。
「船に慣れていないと平衡感覚がずれてこうなるの。お嬢は平気?」
「ええ。酔い止め薬があればよかったわね」
船に乗っている間は症状が酷くなるばかりだ。下船したらどこかで休むよりない。
無事に孤島へたどり着いて、桟橋に船が横付けされた。
降り立った私はさっそく指示を出す。
「アーク校に向かうのは後回しにして、どこかで休みましょう」
船員にトランクを頼んで、白い砂浜を歩く。
港から森の方へ曲がりくねった道が伸びていて、鬱蒼と茂った緑の中央には、巨大な城門がせり出していた。
あそこがアーク校のようである。伝説の怪物が棲みついていそうな風格ある建造物だ。
船に慣れない渡航者のためか、道の入り口には休憩所があった。
ログハウス風の小屋で誰でも入れるようだ。
「みんな、あそこまでの辛抱よ」
のろのろ移動して休憩所に入った。室内には、丸太を半分にして継ぎ合わせたテーブルや不ぞろいな椅子、パンフレットが置かれたカウンターがあるばかり。
「誰もいないわね」
船酔いメンバーは助かったという顔で椅子に崩れ落ちた。
私は、トランクを積んだ荷車をリーズに預けて、部屋を見回る。
座って休むだけの施設かと思ったが、壁際のガラス戸棚に『ご自由にお取りください』と書かれていた。中には、この島の地図と、一口大に切られたベイクドケーキが並べられた皿、青い瓶入りのジュースが三本置いてある。
「ウエルカムドリンクみたいね」
「それはありがたい。海風で喉が渇いていたんだ」
スツールから立ち上がったダークは、戸棚から二本の瓶と栓抜きを取り出した。
私はケーキの皿をテーブルに運ぶ。椅子でうなだれていたジャックが顔を上げ、いち早く船酔いから立ち直った双子が集まってきた。
「オレにも飲み物を寄こせ」
「「僕らはケーキがいい」」
ジュースを封じていたコルクはポンと音を立てて外れた。
瓶の口に白い水蒸気が立ち、中身がシュワシュワと泡立つ。ガラスの表面についていた水滴がポタリと落ちるのと同時に、なぜだか私の肌が粟立った。
(冷えてるわね)
まるで誰かが直前まで氷水に浸していたようだ。
ケーキに触れると温かい。オーブンから出して粗熱を取ったばかりみたいに。
ここには誰もいない。キッチンの設備もない。
いったい誰が用意したのだろう?
「みんな待って。安全を確かめないと――」
止める声は一足遅かった。
ダークとジャックは瓶の中身を一口。
双子はケーキを一かけ飲み込んでしまう。
「「おいしい!」」
「食べたことのない不思議な味がするね。サクランボのタルトと、カスタードとパイナップル、七面鳥の丸焼きと、キャラメルとバター付きトーストが混じり合ったような……うっ」
食レポしていたダークの顔色が変わった。
手から瓶がすべり落ちて、ゴトンと床に転がる。
続けてジャックも瓶を落とした。片目を閉じて喉元を抑えている。
「く、苦しい……」
「「んー!」」
双子までも、ビクンと体を震わせ床に倒れてしまった。
この反応は、きっと毒だ!
「すぐに吐きだして! 喉に指を入れるのよ。自分でできないなら私がやるわ!」
「お嬢、だめよ!」
双子に伸ばした手は、リーズの指に絡めとられた。
「飲んだのが皮膚からも吸収される毒だったら危ないわ。みんなに触れないで」
「このままみんなを見殺しにしろっていうの!?」
「リデルの当主ならそうするわ」
突き放すように言われて、私は絶望に襲われた。
脳内に、父から繰り返し教わった家訓が蘇る。
『――死が隣にあるのをゆめゆめ忘れるな――』
唯一の生き残りである私が死ねば、連綿と受け継がれてきたリデル男爵家の血脈が断たれる。当然、急場で優先されるのは私の身の安全だ。
いくらジャックや双子を大事な家族と思っていても、結局は一家の体裁を保つための駒の一つでしかない。
駒を守るために死ぬ王は存在してはならない。
「で、でも……」
戸惑う私の目の前を、橙色の光が横切った。
光は、小蠅のように飛び回って空中に線を書き付けながら、反時計回りに回っていく。
リーズは私を抱きしめて頭上を睨んだ。
「今度は何だっていうのよ」
光は1から12までの数字を描きながら丸く一周した。
空中に描き出されたのは巨大な時計だった。盤面がギラリと輝いたかと思えば、一気に剥がれ落ちて、真下で苦しんでいた四人に降りそそぐ。
「みんな!」
私は叫んだ。それしかできなかった。
光は苦しむ彼らの体に触れると一段と輝いた。光る体は、サナギの内側が溶けるようにぐにぐにと形を変え、やがて――ポンと破裂した。




