四話 汽車と恋路とレモネード
「見て、羊がいっぱいいるわ!」
蒸気機関車の車窓から見える動物の群れに、私は歓声を上げた。
ロンドンを抜けて二時間も走るとすっかり田舎だ。青々とした草をはむ動物たちものんびりしていて、見ているこちらまでリラックスできる。
「周りを走り回っているのは牧羊犬ね。人の言葉を理解して群れを追い込むって聞いたことがあるわ。どこまで命令を聞けるのかしら」
はしゃぐ私に、向かい側の席で足を組むダークが愛しそうに目を細める。
「小さな子どもみたいだよ、アリス。俺たちの可愛い双子は、こんなにお行儀よく座っていられるのにね」
「「ちゅー」」
ダークの隣に座るダム、私の横に腰かけたディーは、駅で買った小瓶入りのレモネードに夢中だ。
駅のホームに入ってしばらくは蒸気機関車に興味津々だったが、走り出してしばらくするとすっかり慣れたもので、窓から見える景色にも興味を示さない。
騒いでいるのは自分だけだと気づいたら急に恥ずかしくなった。
「わ、私だってお行儀よくしていられるんだから」
「では、模範的なレディに、砂糖たっぷりの紅茶をお出ししよう」
ダークは水筒から淹れた紅茶を私の前に出した。
ボックス席の真ん中には小さなテーブルがあり、紅茶とレモネードの他、口慰みのチョコレートとスコーン、ビスケットがのせられている。
前世の電車旅には駅弁がつきものだったが、この世界で弁当は一般的ではない。
食事は持ち込んだパンで済ませるか、停車駅でいったん車両を降りてレストランに食べにいく。私たちは店に食べに行く予定だが、小腹を満たすお菓子も持ってきたのだ。
甘い紅茶に口を付けると、さっきまでの旅の高揚がスンと落ち着いた。
「列車に乗った経験なんて数えるくらいしかないから、うっかりはしゃいでしまったわ」
一等客車を貸し切っているので、他の乗客に見られていないのがせめてもの救いだ。
私たちがいるここが客室で、前部の使用人室にはリーズと家令、後ろの荷物置き場にはジャックがいる。いつ起こるか分からない襲撃に備えているのだ。
上機嫌のダークは、丸めて帽子に飾っていた地図を引き抜いてテーブルに広げた。
イチジクの実みたいな形の陸地に地名が記されている。ロンドンから地方へ走るいくつもの線は鉄道の路線だ。
ダークの長い指が、海へと続く一本を指した。
「これから俺たちが向かうのは海沿いのリゾート地だ。豪華絢爛なボールルームが有名で海にも近い。水着は持ってきたかい?」
「あいにく持ってきてないわ。私たちはバカンスに行くのではないの。だから持ち物も最低限なのよ。トランクを十五個も持ってきたあなたとは違ってね!」
駅で待ち合わせた私は、現われたダークを見て目を剥いた。
探検家風のフロックコートや帽子も変わっていたが、それ以上に目立っていたのが、荷夫が運ぶトランクの山だった。聞けばほとんどが衣装だという。
これが着道楽の本気……!
「あなたのせいで荷物置き場が満杯よ。帽子や衣装がかさばるとはいえ多すぎない?」
「多いのは君たちの分もあるからだよ。洒落た服は持ってこないだろうと思って、寄宿学校にお似合いの衣装を仕立ててきたんだ」
「五人分をこの短期間で?」
家庭用ミシンが普及してきたとはいえ、服の仕立ては想像以上に時間がかかる。数日がかりで一着ということは珍しくない。
というか、いつ私たちのサイズを測ったのだろう。
怪訝に思う私の横で、ダムとディーもぱちくりしている。
「僕のも?」
「僕にも?」
「もちろんだよ、愛しい双子たち。君たちのデザインは特にこだわったんだ。まずは上着だけどね――」
ダークの説明を聞きながら、双子は真顔でレモネードを吸う。
あまり感情を表に出さない子たちだが、パーティーの日が嘘のように友好的である。
(この調子なら、長旅も問題なさそうね)
私はいくらか安堵して、甘いチョコレートをつまんだ。
寝台車ではないので途中でホテルに一泊し、旅の日程は二日目。
長距離列車の終点である街に女優帽を被った私は降り立った。
「わぁ……! 気持ちの良いところだわ」
霧の都ロンドンとは違い、海風が吹き抜ける街は澄んでいる。空気の淀みが少ないせいか、潮の匂いすらも清々しい。
人気のリゾート地なだけあって大規模に開発されていて、建物はどれも巨大で新しく、舞踏場や水浴場、ガラス天井の植物園へ行く道を案内する看板がたくさん立っていた。
私たちと同じく都会から来た観光客は、どんな風に遊ぼうか期待を膨らませて、明るい表情で行き交う。
遅れてやってきたダークは、ダムとディーにこの辺りを案内している。
「この大通りを進むと海があるんだよ。アーク校でも、休みの日は好きなだけ水遊びできるはずだ。友達はすぐにできるし何も心配いらないよ」
古びた立て看板を横目で見たダークは、おもむろに家令を呼んだ。
ジャック、リーズと共にトランクをまとめていた家令は、ダークに耳打ちされると駅舎の中へ戻ってしまった。
「じいやさんはどちらに?」
「お使いを頼んでおいた。俺たちは寄宿学校に向かおうか」
ダークは客待ちしていた辻馬車に声をかけた。
中年の馭者は、行き先がアーク校だと聞くなり顔をしかめる。
「あそこに行くのは止めな。ろくなことにならねえぞ」
「それはなぜでしょうか」
「あの学校には〝怪物〟が住んでるって伝説があるんだ。昔この辺りを治めていた領主が呼び出して城を作らせたんだが、校舎になった今もうろついているらしい。金持ちの坊ちゃんは知らねえみてえだが、地元の人間は近付かねえのよ」
大英帝国において幽霊が出る建物は価値が上がるものだが、怪物とは珍しい。
あやしい話題に引っかかりを覚えたダークは表情を曇らせた。
「――だそうだ。どうしようか、アリス?」
「怪物がいるなんて面白い学校ね!」
「えっ」
ダークはぎょっとしたけれど、私はときめきを抑えられない。
「伝説の怪物が棲みついているなんて、児童向けファンタジー映画みたいだわ! 前世では好きでよく見ていたのよね」
「前世?」
ダークが不審そうに呟いたので、はっとする。
私が転生者なのは秘密なんだった!
「なっ、何でもないわ! どんな学校なのか早く見てみたいわね。ご迷惑はかけないので案内をお願いできますか?」
相場の二倍の金を握らせると、馭者は「仕方ねえな」と引き受けてくれた。
三台の馬車を手配して私たちは出発する。二台目にはリーズとジャックが乗った。
さらに後ろを付いてくる荷馬車の馬は重そうだ。たぶん、ダークの荷物のせいだろう。
(怪物がいる寄宿学校……。聞いたこともないわね)
すでに解決した『眠り姫事件』『切り裂きジャック事件』は、私が前世でプレイしたジャック、リーズ、トゥイードルズのルートでも起こる。
しかし、今回のアーク校は、彼らの物語には影も形も出てこなかった。
続編で追加された『ナイトレイ伯爵ルート』の独自のエピソードかもしれない。
(私は知らない。でも、大丈夫よ。みんなが一緒だもの)
馬車に揺られる私には余裕があった。
知らない道を歩む怖さを、この時の私はまだ知らなかったのだ。




