† † 女王とチェシャ猫 † †
石造りの宮殿の、前庭を見渡せる一室。
大英帝国の国旗が立てられた暗い執務室で、ヴィクトリア女王は、リデル男爵家から届けられた手紙を開けた。
質素な白い封筒には、郵便配達を利用するための切手が貼られていたが、局預かりのスタンプは押されていない。
送り主から手紙を預けられた者が、宮殿に直接、届けにきたからだ。
女王は、少女の愛らしい筆跡で書かれた文章を、ランプの明かりにかざして読みとっていく。
「アリスは、切り裂きジャック事件の真犯人を見つけ出したようね。リデル一家から容疑者を出しておきながら処刑もなしとは、大英帝国の黒幕らしくないこと」
女王は断罪を望んでいた。
犯人が処刑されれば、他の犯罪への抑止力になるからだ。
それが無罪の人間でもかまわない。
どうせ死人に口はないのだ。真犯人として語られれば役目は十分に果たしてくれる。国のために死んだと誇ってもらいたいくらいだ。
低賃金の労働者が多く住むイーストエンドは、為政者への反発が強い地域だった。
彼らは、自分たちが貧しいのは王族や貴族たちが富を独占しているせいだと思い込んでいて、真面目に働くよりも犯罪に手を染める方に熱心なのである。
そこで猟奇的な殺人事件が起きたのは良い機会だ。
犯人が捕まり、まるで天から裁きを受けたように死んでしまえば、住民は犯罪を控えるようになるだろう。
次は、自分が罰を受けるかもしれないのだから。
だが、アリスはヴィクトリア女王の思惑通りには動かなかった。
自力で調査して有力な情報をつかみ、裁判に乗りこんで真犯人を暴く茶番まで行ったという。
彼女を援助していていたのは、女王が婚約を触れ回ったナイトレイ伯爵だった。
あの伯爵であれば、手早くアリスを丸め込んで結婚し、彼女の手にあるリデル一家のノウハウを駆使して、女王の方針に逆らわない新体制を築くと思っていたのに――。
「誤算だったわ。闇のなかでしか生きられないアリスと、出生に秘密のあるナイトレイ伯爵はお似合いだと思ったのだけれど。これからも逆らい続けるようなら、引き離さなければならないわね」
「恋する二人の仲を引き裂くなんて、まるで悪魔の所業ですわね。女王陛下」
敬意も遠慮もなく女王に告げたのは、出窓に腰かけた若者だ。
黒いスーツが暗がりにまぎれて姿は見えにくいが、派手なストールとピンク色の髪のせいで、首から上が宙に浮かんでいるように見える。
片耳につけた蛇のピアスが光る様は、暗闇のなかで目だけが光る猫のようだ。
女らしくも男らしくもない容貌と、一つの名前に縛られない生き方、国の頂点に君臨する自分にかしづかない気丈さを持つ彼を、女王は我が子のように気に入っていた。
「悪魔なんて気味が悪いたとえはやめてほしいわ、チェシャ。今度は、貴方がアリスのお相手になったらどうかしら。演技で貴方の右に出る者はいないでしょう。アリスが恋に落ちるような、素敵な男性を演じてくれない?」
「そうねぇ……」
顎に手を当てて一考した若者は、髪を散らして振り向いた。
濃いピンク色の瞳は見開かれ、ニタニタ笑いの口元は、耳まで裂けるのではと心配になるくらいつり上がっている。
「考えておくけど、約束はできないわ。猫は気まぐれな生き物だって、寄宿学校の教科書に載っていたもの。アタシ、お勉強は得意だったの。そうでなければ、ライオンとユニコーンが睨み合うなかを生き抜けなかったわ」
「猫が猛獣を従えるなんて、おとぎ話のようだったわね」
笑う女王の背後で刺繍旗がひるがえった。ライオンとユニコーンに守られた盾の紋章は、ヴィクトリア女王を現わす印として用いられている。
この取り合わせがそろう場所には、少なからず女王の影響力が及んでいるのだ。
「それじゃ、アタシもう行くわ。早く寝ないとお肌に悪いもの」
そう言い残して、若者は出窓を離れた。
生まれ持った色彩ゆえに、夜に溶けこめない彼が、どこへ行き、誰と会って、どんな風に眠るのか――。
「知りたくもないわね」
しなやかな後ろ姿を見送った女王は、マッチを擦って付けた火を、少女からの手紙に近づけた。
便箋はメラメラと燃え上がり、塵となって灰皿に積もっていく。
「これから貴方の人生は、もっと面白いことになるわよ、アリス。ここは大勢の人間が作りだした不思議な国で、貴方はその主人公なのだから」
夜のとばりのなかで、死神の車輪は、音もなく回り出した。
女王が自分を意のままに操ろうとしていることを、愚かなアリスはまだ知らない。




