† † 鏡の悪魔、再来 † †
私とダークは、ロンドンから西へ抜ける街道を進んでいた。
車窓からは、青く晴れわたった空が見える。
夏の終わりをしらせる涼しい風は、草原や木々の葉を揺らすように馬車の中にも吹きこんで、私の肌をかすめていった。
ナイトレイ伯爵家の馬車は、ダークが先に進めなかった地点の手前で止まった。
ダークに手を取られて地面に下りると、乾いた土と太陽の匂いがする。
「公爵夫人は警察に捕らわれているが、ロンドンを囲んでいる『鏡の悪魔』の仕掛けはどうなったかな……」
ダークは街道を一人で歩いて行く。以前なら、鏡をすり抜けたように元来た道に戻されていたが、今日はそのまま向こうへ進んだ。
「仕掛けが解けているわ! これで領地へ戻れるわね!」
私が手を叩いて祝福すると、ダークはむっとした表情で近づいてきた。
「酷いな、アリス。俺と離れ離れになるのがそんなに嬉しいのかい?」
「あなたは嬉しくないの? ロンドンから出られなくて困っていたんだから、もっと喜んだらいいわ。私は離れ離れになっても、寂しいなんて感じないから安心して。あなたと私は、婚約者といってもお披露目もまだの関係よ。ダムとディーには認められていないし、ただの候補でしかないってことは忘れないでちょうだい」
「ふうん。じゃあ、婚約は破棄する?」
「!?」
びっくりして固まると、ダークにふっと微笑まれた。
「嘘だよ。破棄なんてさせないさ。俺は、番犬君のように生易しくないからね。君を檻にでも入れておけたらどれだけ安全か、今回の事件で思い知ったよ」
思い返せば、今回の事件での『アリス』は、ジャックに攫われたり、ボートの事故に巻き込まれたり、ダークと引き離される展開が多かった。
私に危険が迫るたびに、彼が奔走してくれたのだ。
「心配してくれてありがとう。これからは、あなたを巻きこまないように気を付けるわ」
「気づいていなかったのかい。巻き込まれたのは君だよ?」
「どういうこと……?」
きょとんとする私に、ダークは丁寧に説明してくれた。
「鏡の悪魔の行動をおさらいしたら良く分かるよ。彼女が、ロンドンを囲むように鏡の術をほどこしたのは、俺が領地に帰ってしまうと、アリスとの距離が離れてしまうからだ。ジャック君の名前を壁に書いたのは、俺の恋敵である彼がアリスへ指輪を渡そうとしていると知ったからだ。壁に書かれていた切り裂きジャックの犯行声明を覚えているかい?」
「たしか『――これは恋を叶えるための殺人である――』だったはずよ」
血文字を見たときは、ジャックの容疑を晴らしたい一心で見逃していたけれど、殺人事件の犯人が残すにはロマンティックな文言だ。
ダークは、立てた指先で空中にハートを描いた。
「そう。あのメッセージには、二つの意味があったんだ。鏡の悪魔が叶えたかった恋とは、すなわち、シャロンデイル公爵への公爵夫人の恋だった。そして、俺がアリスに対して抱いている恋だった。公爵夫人は、俺がアリスとの婚約披露パーティーの相談を、公爵にしていると知っていたからね。どこかで俺の本性が悪魔だと見抜いて、余計なお節介をしたんだと思うよ」
『よくできました』
ダークと私の間に、大きな鏡が現われた。
とっさに後ろへ退くと、波打つ鏡面に、牢屋にいるはずの公爵夫人の姿が映る。
『あのジャックがいなければ、ナイトレイ伯爵の恋は成就しますもの。事件を起こした夜に彼の姿を見かけたとき、これはチャンスだと思いましたの。それに、伯爵がアリス様を取り返してヒーローになるとふんでいなければ、脱獄なんてさせませんでしたわ。わたくしは人に恋する悪魔として、あなたたちに協力してさしあげましたのよ。感謝していただきたいですわ』
鏡面から、手が、頭が、足が、ぬっと抜け出てきた。
身につけているのは、胸元まで大胆にあらわになった、悪魔らしいドレスだった。もはや人間に化けるのは面倒なのか、髪の間から一本角を生やしている。
「人を殺した罪は償わなければなりませんわ、スージー様。どうか、牢屋へお戻りください」
私がポシェットから拳銃を取り出してかまえると、公爵夫人はおっとりと笑う。
『嫌ですわ。だって、牢屋はとっても退屈なんですもの。取り調べだってそう。どうして人間は、同じことを何度も聞くのかしら。食事は、パンと水だけの質素なものを、毎日毎食なんですのよ。せめて肉料理や甘いデゼールでも付けてくれたら、もう少し我慢して付き合ってあげましたのに……』
貴族といえど殺人犯だ。
贅沢な食事が提供されるはずないのだが、悪魔にそういった人間の常識は通用しない。
『アリス様もお気を付けくださいね。悪魔と仲良い家庭を築くには、豊富な話題と美味しいお食事は不可欠ですわ。今のうちに腕のいい料理人を見つけるか、使用人に自分好みの味付けを覚えさせるとよろしくてよ』
「先人のご忠告、痛み入ります。しかし余計なお世話ですよ」
ダークは、宝石つきのステッキを地面に突き立てた。
先端から光の粒子が流れ出て、公爵夫人の足下に三日月型の紋章を描いていく。
「俺は、恋に破れた悪魔を、自分のお手本にする気はありません。シャロンデイル公爵に同情します。貴方に惚れられなければ、悪魔の子になる必要もなかったでしょうに……」
『それにも気づいていらしたのね』
公爵夫人は、責められても物怖じせずニコニコしている。
私の背中を嫌な汗がひとすじ伝っていったが、銃口は下ろさない。
「私たちは、全て分かっているわ。見つからなかった二人目の被害者がシャロンデイル公爵だったことも、あなたが彼を悪魔の子にしてよみがえらせたこともね!」
事件当夜、被害者と赤ちゃんをかばって刺された公爵は、大量に出血して一度は息を引き取った。
公爵夫人に烙印を押されて、無理やり死から蘇らされたのだ。
犯行声明の凝集反応は、被害者ケイト・エドウッドと公爵の血で起きたのである。
公爵夫人は、頬に手を当てて懐かしそうに目を細める。
『旦那様に烙印を押したとき、わたくしは高揚しました。これでやっと旦那様の心を手に入れられると、歓喜に震えたのですわ。けれど、旦那様の気持ちは変わらなかった……。財もない、美しくもない、身分違いの女性の方が好きなんですって』
「誰をどんな風に愛するかは、人それぞれですわ。どんなに美しい人でも、どんなに富のある人でも、恋した人と結ばれないことはたくさんあります――」
恋は残酷だ。
残酷だと知っているのに、人はそれに落ちてしまう。
木のうろにひっそりと空いたウサギ穴のように、目に見えるようには口を開けていないのだ。
「思い通りの結果にならなくても、そのせいで傷ついて歩けなくなってしまっても、それは恋をしてしまった本人の責任です。恋を建前に人を傷つけてはいけません。相手への情熱に身を焼かれて苦しくても、それだけは忘れてはならないと思います」
懸命に語る私を、夫人は微笑ましく見つめている。
穏やかな瞳には、憧憬の色がこもっている気がした。
『人間て、本当に愚かですわね。だからこそ、愛おしいのですけれど……』
「お話はそこまでにしていただきます。お別れですよ、公爵夫人」
『あらあら、もう?』
ダークがステッキに力を込めると、紋章の輝きが強くなった。
真昼の陽光に負けないほどの光に包まれて、公爵夫人の姿は地中に沈んでいく。
『アリス様。ナイトレイ伯爵。どうかお幸せに。わたくしが叶えられなかった、悪魔と人間の恋が成就するところを、地獄から見守っておりますわ――』




