八話 真っ黒な愉悦
名前を呼ぶと、ジャックの顔がこわばった。
どんな表情で私に向き合えばいいのか、分からないのだろう。一世一代の告白を拒絶されてしまったのだから。
断った私も気まずい部分はあるが、だからって家族の絆まで壊した覚えはない。
私は腕を上げて、ジャックの頬をパシリとはたいた。
彼は衝撃で横っ面をさらす。
「私、悲しかったわ。あなたが、深夜にお屋敷の外で働いているなんて知らなかったもの。約束を破って外出するなんて考えられなかったもの」
「……すまない」
「だけど、一番腹が立つのは、それを見抜けなかった私自身によ。あなたは少しも悪くない。今回の件で愛想を尽かされるべきなのは、当主として油断していた私だわ!」
私の言葉にはっとしたジャックは、赤くなった頬を押えて振り向いた。
「お嬢……」
「他人に頼ってばかりで一家を不安にさせて、侵入者への警戒を怠って家族を連行されたあげく、油断して河に投げ出されるなんて、情けないわ。もしも鏡の悪魔が、ジャックではなくリデル男爵家を狙っていたら、我が家は壊滅させられていたかもしれない。リデル男爵家当主としてのあり方を、切り裂きジャック事件が思い出させてくれたの」
鏡の悪魔の思惑通りに転がされたことは屈辱でしかない。
だが、煮え湯を飲まされたことで、私の頭は完全に醒めた。
こんな思いは二度としないし、一家にもさせない。絶対に。
私は、ジャックの胸元に寄りかかって、シャツの上から爪を立てる。
「もう誰にも奪わせないわ。ジャックの目玉も血も、髪の毛の一本さえ、私のものよ」
「いっ……」
ジャックの顔が痛みで引きつった。
薄い爪は刃のように肌を裂き、傷口からあふれ出した血が、白いシャツを染めていく。
その様はまるで、赤い薔薇の花が開いていくようだった。
私は、濡れる指先を見つめながら、悪魔が烙印を焼き付けるように、ジャックの体に消えない傷跡が残ってしまえばいいと、ろくでもないことを思う。
ギリギリと力のこもる私の右手に、自分が贈った指輪を見たジャックは、何もかもを受け入れた表情で頭を垂れた。
「好きにしろ……。オレを生かすも、殺すも、お嬢の自由だ……」
「ありがとう、ジャック。私、とても嬉しいわ」
柔らかく微笑んだ私は、爪を引き抜いてジャックの鼓動に耳を澄ませた。
周囲からは抱き締めあっているように見えるかもしれないが、私とジャックのあいだに結ばれたのは、ほの暗くも感傷的な主従の誓いだった。
ジャックの意思、感情、生死さえも、全てが私に委ねられた。
もう一生、彼は私を裏切らない。
自分勝手に行動して、一家を危険にさらすくらいなら死を選ぶだろう。
支配欲が満たされた私は、真っ黒な愉悦に包まれる。
(私の他に、誰がリデル一家の当主をつとめられるというのかしら。あなたもそう思うでしょう、『アリス』――)




