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【翻訳英語版③巻発売】悪役アリス  作者: 来栖千依
第七章 悪魔の恋わずらい

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三話 合図は胡椒とステッキの音

 私は、シャロンデイル公爵家の応接間で、体勢を低くしていた。


 哺乳瓶と布おむつが大量に置かれているテーブルのそばだ。

 シャロンデイル公爵家は荒れ果てているが、ここだけは掃除が行き届いているので、埃まみれにならずにすんだ。


 ちらりと柱時計を見ると、左右逆さまの文字盤が午後三時を示している。


(そろそろジャックの裁判が始まっているはずだわ。ダークには、できるだけ裁判を引き延ばしてとお願いしたけれど、どうなっているかしらね)


 胡椒のタルトは、無事に焼き上がっただろうか。

 あれこそ、このたびの事件を引き起こした『鏡の悪魔』の最大の誤算である。


 そして、私が現実世界に戻るための、鍵になるアイテムだ。


(私が現実世界に戻ることができれば、全ての罪を解き明かせるわ)


 鏡の向こう側からの脱出計画は、無謀にして無鉄砲だ。

 ダークとタルトの威力を信じて、これから訪れるだろう一瞬の機会にかけるよりない。


「!」


 急に鼻がむずっとして、私は口元を手で押えた。

 どこからか、胡椒の匂いがただよってくる。


 注意深く辺りを観察していると、テーブルの上の空間が、夏の日に照らされた水面のように波打った。

 公爵夫人が悪魔の力を使って、こちらとあちらの世界をつなぐ鏡を出現させたのだ。


「お腹が空いたのね。いまミルクを――」


 宙に浮かんだ鏡のなかから、公爵夫人の手がぬっと現われた。

 手は、探し物をするようにテーブルのうえをさまよって、最後に哺乳瓶をつかむ。


 ――コツン。


 そのときを報せるステッキの音に、私はたかぶった。

 引き抜かれる夫人の手首に合わせて、しゃがんでいた足を踏みきる。


「せーのっ!」


 棒高跳びの選手のように、鏡面に向かってジャンプすると、私の体は波打つ境界をすり抜けて、哺乳瓶を引き抜いた夫人にぶつかった。


 夫人は椅子から転げ落ちたが、寸でのところで私がおくるみを取り上げたので、赤ちゃんは無事だ。

 びっくりして「おぎゃあ、おぎゃあ」と元気に泣き出す赤ちゃんを、私はあわてて揺する。


「びっくりさせてごめんなさい。よしよし、もう大丈夫よ!」

「お嬢!」


 いきなり法廷に現われた私を見て、リーズが叫んだ。

 顔を上げると、裁判はもう始まっていて、被告人席に立ったジャックが目を丸くしていた。


 やっと鏡の世界から戻ってこられた!


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