三話 合図は胡椒とステッキの音
私は、シャロンデイル公爵家の応接間で、体勢を低くしていた。
哺乳瓶と布おむつが大量に置かれているテーブルのそばだ。
シャロンデイル公爵家は荒れ果てているが、ここだけは掃除が行き届いているので、埃まみれにならずにすんだ。
ちらりと柱時計を見ると、左右逆さまの文字盤が午後三時を示している。
(そろそろジャックの裁判が始まっているはずだわ。ダークには、できるだけ裁判を引き延ばしてとお願いしたけれど、どうなっているかしらね)
胡椒のタルトは、無事に焼き上がっただろうか。
あれこそ、このたびの事件を引き起こした『鏡の悪魔』の最大の誤算である。
そして、私が現実世界に戻るための、鍵になるアイテムだ。
(私が現実世界に戻ることができれば、全ての罪を解き明かせるわ)
鏡の向こう側からの脱出計画は、無謀にして無鉄砲だ。
ダークとタルトの威力を信じて、これから訪れるだろう一瞬の機会にかけるよりない。
「!」
急に鼻がむずっとして、私は口元を手で押えた。
どこからか、胡椒の匂いがただよってくる。
注意深く辺りを観察していると、テーブルの上の空間が、夏の日に照らされた水面のように波打った。
公爵夫人が悪魔の力を使って、こちらとあちらの世界をつなぐ鏡を出現させたのだ。
「お腹が空いたのね。いまミルクを――」
宙に浮かんだ鏡のなかから、公爵夫人の手がぬっと現われた。
手は、探し物をするようにテーブルのうえをさまよって、最後に哺乳瓶をつかむ。
――コツン。
そのときを報せるステッキの音に、私はたかぶった。
引き抜かれる夫人の手首に合わせて、しゃがんでいた足を踏みきる。
「せーのっ!」
棒高跳びの選手のように、鏡面に向かってジャンプすると、私の体は波打つ境界をすり抜けて、哺乳瓶を引き抜いた夫人にぶつかった。
夫人は椅子から転げ落ちたが、寸でのところで私がおくるみを取り上げたので、赤ちゃんは無事だ。
びっくりして「おぎゃあ、おぎゃあ」と元気に泣き出す赤ちゃんを、私はあわてて揺する。
「びっくりさせてごめんなさい。よしよし、もう大丈夫よ!」
「お嬢!」
いきなり法廷に現われた私を見て、リーズが叫んだ。
顔を上げると、裁判はもう始まっていて、被告人席に立ったジャックが目を丸くしていた。
やっと鏡の世界から戻ってこられた!




