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【翻訳英語版③巻発売】悪役アリス  作者: 来栖千依
第六章 鏡写しのアリス

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八話 悪魔の落とし物

 バクバク鳴る心臓を手で押えながらうかがうと、鏡の向こうを歩いているのは公爵夫人だった。

 優しい声で、おくるみに包んだ赤ちゃんをあやしている。


「あなたは良い子よ。だから、そろそろお休みなさいね。夜更かしすると、あなたのお父様のように、大事なことはしゃべれなくしてしまいますよ」

「奥様」


 現われたキッチンメイドが、石のような顔つきで夫人を呼んだ。


「ナイトレイ伯爵が、旦那様への面会を求めていらしています」

「夜遅くに珍しいこと。水中からアリス様が見つかったのかしら?」


 公爵夫人は、私がボートの事故で死んだと思っていたようだ。

 鏡の向こうの世界にいても、鏡の悪魔は感知できないらしい。


「恋人を失って落ち込んでいるのを追い返しては可哀想だわ。この部屋にお通しして。ほとんどの使用人が辞めてしまったから、掃除が行き届いているのはここくらいだもの。旦那様も着替えさせなくてはいけないわね。わたくしのドレスとおそろいのネッカチーフを結びましょう。良い子ちゃんは、ここで待っていてね」


 夫人は、赤ちゃんをソファに置いて出て行った。


 足音が十分に遠くなったのを見計らって布をめくりあげる。

 一人で入室してきたダークは、鏡の向こうから私を見つけて微笑んだ。


「お待たせ……。ああ、ソファに先客がいるね。こんばんは」


 ダークが挨拶すると、赤ちゃんは小さい手を伸ばしてキャッキャと笑った。


「お屋敷で綺麗なのはこの部屋くらいだね。貴族が訪ねてきたというのに、キッチンメイドに迎えられるというのも不思議だ。他に使用人がいないから来客を案内できず、屋敷の手入れもおろそかになっているんだろう」


『どういうこと?』


 持ってきた紙に書いて見せると、「シャロンデイル公爵家は、使用人を手酷く扱うので人がいつかない、という噂があるんだよ」と教えてくれた。


「大邸宅は使用人がいなければ維持できないものだ。離脱者が多い場合は、主人から使用人をとりまとめる夫人へ注意があるものだが……」


『公爵は、公爵夫人に強く出られないわ。操られているんだもの』


「そうは言っても、公爵はプレジャーガーデンズや遊覧船事業をはじめ、多くの仕事を続けているよ。声には出せないとしても、何らかの手段で助けを求めそうなものだ。ひょっとしたら、俺たちが見逃しているんだろうか……」


 ダークは顎に手をかけた。

 私も考えたが、公爵からヘルプサインが出ていたかどうかは思い出せない。


「やあ、待たせたね」


 応接室に公爵が入ってきた。

 私は、とっさに布から手を外してしゃがむ。


 公爵の後ろに夫人の姿もあったが、見られなかっただろうか。

 緊張して息を潜めていたが、布がめくられることはなかった。


 ソファが軋む音がする。

 夫人が赤ちゃんを抱き上げて、公爵が座ったようだ。


「アリス嬢が見つかったのかな?」

「いいえ。夜になったので捜索を中断させています。まだ気が動転していて、自分の家には帰りたくないのです。押しかけて申し訳ありません」


「謝るのはこちらの方だ。進水式のシャンパン割りをやらなければ、彼女はテムズ河に近づくことはなく、ボートの事故にも遭わなかったのだから。プリンセス・アリス号の持ち主は私だ。事故の責任は私にある」


 負い目を感じる公爵の声に重なって、赤ちゃんのぐずる声が聞こえてきた。


「あらあら、お客様の前で泣いてはいけないわ。おむつかしら?」


 こちら側のテーブルの上が波打って、ぬっと突き出された公爵夫人の手が、山積みになった布をつかんだ。

 位置的に、背中で隠れてダークからは見えないはずだ。


 ふわっと胡椒の匂いがして、私はとっさに口元をおおった。


(くしゃみをしたら、さすがに私の居場所がバレてしまうわ!)


 ぐっと息をこらえていると、夫人の手は引っこんでいった。

 抜ける際に、鏡の縁にレース仕立ての袖が触れて、光る物が落っこちる。


 それは、コロコロと床を転がって、ソファの下に入ってしまった。


(何かしら?)


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