八話 悪魔の落とし物
バクバク鳴る心臓を手で押えながらうかがうと、鏡の向こうを歩いているのは公爵夫人だった。
優しい声で、おくるみに包んだ赤ちゃんをあやしている。
「あなたは良い子よ。だから、そろそろお休みなさいね。夜更かしすると、あなたのお父様のように、大事なことはしゃべれなくしてしまいますよ」
「奥様」
現われたキッチンメイドが、石のような顔つきで夫人を呼んだ。
「ナイトレイ伯爵が、旦那様への面会を求めていらしています」
「夜遅くに珍しいこと。水中からアリス様が見つかったのかしら?」
公爵夫人は、私がボートの事故で死んだと思っていたようだ。
鏡の向こうの世界にいても、鏡の悪魔は感知できないらしい。
「恋人を失って落ち込んでいるのを追い返しては可哀想だわ。この部屋にお通しして。ほとんどの使用人が辞めてしまったから、掃除が行き届いているのはここくらいだもの。旦那様も着替えさせなくてはいけないわね。わたくしのドレスとおそろいのネッカチーフを結びましょう。良い子ちゃんは、ここで待っていてね」
夫人は、赤ちゃんをソファに置いて出て行った。
足音が十分に遠くなったのを見計らって布をめくりあげる。
一人で入室してきたダークは、鏡の向こうから私を見つけて微笑んだ。
「お待たせ……。ああ、ソファに先客がいるね。こんばんは」
ダークが挨拶すると、赤ちゃんは小さい手を伸ばしてキャッキャと笑った。
「お屋敷で綺麗なのはこの部屋くらいだね。貴族が訪ねてきたというのに、キッチンメイドに迎えられるというのも不思議だ。他に使用人がいないから来客を案内できず、屋敷の手入れもおろそかになっているんだろう」
『どういうこと?』
持ってきた紙に書いて見せると、「シャロンデイル公爵家は、使用人を手酷く扱うので人がいつかない、という噂があるんだよ」と教えてくれた。
「大邸宅は使用人がいなければ維持できないものだ。離脱者が多い場合は、主人から使用人をとりまとめる夫人へ注意があるものだが……」
『公爵は、公爵夫人に強く出られないわ。操られているんだもの』
「そうは言っても、公爵はプレジャーガーデンズや遊覧船事業をはじめ、多くの仕事を続けているよ。声には出せないとしても、何らかの手段で助けを求めそうなものだ。ひょっとしたら、俺たちが見逃しているんだろうか……」
ダークは顎に手をかけた。
私も考えたが、公爵からヘルプサインが出ていたかどうかは思い出せない。
「やあ、待たせたね」
応接室に公爵が入ってきた。
私は、とっさに布から手を外してしゃがむ。
公爵の後ろに夫人の姿もあったが、見られなかっただろうか。
緊張して息を潜めていたが、布がめくられることはなかった。
ソファが軋む音がする。
夫人が赤ちゃんを抱き上げて、公爵が座ったようだ。
「アリス嬢が見つかったのかな?」
「いいえ。夜になったので捜索を中断させています。まだ気が動転していて、自分の家には帰りたくないのです。押しかけて申し訳ありません」
「謝るのはこちらの方だ。進水式のシャンパン割りをやらなければ、彼女はテムズ河に近づくことはなく、ボートの事故にも遭わなかったのだから。プリンセス・アリス号の持ち主は私だ。事故の責任は私にある」
負い目を感じる公爵の声に重なって、赤ちゃんのぐずる声が聞こえてきた。
「あらあら、お客様の前で泣いてはいけないわ。おむつかしら?」
こちら側のテーブルの上が波打って、ぬっと突き出された公爵夫人の手が、山積みになった布をつかんだ。
位置的に、背中で隠れてダークからは見えないはずだ。
ふわっと胡椒の匂いがして、私はとっさに口元をおおった。
(くしゃみをしたら、さすがに私の居場所がバレてしまうわ!)
ぐっと息をこらえていると、夫人の手は引っこんでいった。
抜ける際に、鏡の縁にレース仕立ての袖が触れて、光る物が落っこちる。
それは、コロコロと床を転がって、ソファの下に入ってしまった。
(何かしら?)




