六話 冷たいキス
最悪の想像をした私は、ぺたりと張りつく音に気を戻された。
見れば、ダークが切なげな表情でガラス窓に手を当てている。
「鏡の悪魔も、ボートの事故も、恐ろしかったろう。一人でよく頑張ったね」
大きな手が、私の頬を撫でるようにガラスを滑る。
「困ったな。君を力いっぱい抱きしめてキスしたいのに届かない」
「私も、貴方に抱きしめられたいわ……」
口の動きだけで伝わったのか、ダークは顔を傾けた。
目を伏せてガラスに口付けすると、彼も向こう側からキスをしてくれた。感じるのは冷たくて硬い感触。
けれど、久しぶりに誰かと触れあえた気がして涙が出てくる。
「――泣かないでくれ。君を鏡の中から救い出す方法を探すよ」
こっくり頷いたとき、資料室の扉が開いた。
顔を覗かせたのはヒスイだった。
「ゴシュジン、お客。ハンジさん」
「ナイトレイ伯爵、夜更けに申し訳ありません。警察から、こちらにいらっしゃると伺ったもので」
トレヴァーが姿を見せた。
ダークがとっさにカーテンを閉めたので、私の方からは声しか聞こえない。
「アリス様の捜索はどうなりました?」
「暗くなったから解散したよ。無理をして、さらなる犠牲者を出すわけにもいかないからね。明日の朝、明るくなったら下流を探すことになった」
「そうですか……。こんなときですが、切り裂きジャック事件の裁判日程が決まりました。脱獄した件で危険人物だと思われたのでしょう、早めに処遇を決めるようです」
「了解した。開廷日時は?」
「三日後の午後三時です。上司に押しつけられたので、僕が裁判長をつとめます」
ついにジャックの裁判日が決まってしまった。私は、カーテンを握りしめる。
(真犯人は見当がついたけれど、どうやってここから出ればいいの)
ジャックを第一に考えるなら、裁判は早いほうがいい。
私が鏡の世界から出られなくても、ダークに推理を伝えて真犯人を暴けば、無罪は勝ち取れるはずだ。
(でも、ジャックは……。ダークには助けられたくないはずだわ……)
私は、右手の指輪を見下ろした。
アクロスティックで作られた愛の言葉が刺さるように痛い。
ジャックが過激な行動を取ったのは、私がダークを頼りすぎたせいだ。
私は、脱獄した彼に誘拐されてはじめて、ダークに依存していたと自覚した。
リデル一家の当主にあるまじき態度で過ごした結果、ジャックは私がリデル男爵家を捨てるのではないかと不安がった。
その結果として単独行動をとり、切り裂きジャック事件の容疑をかけられるに至ったのだから、すべての責任は私にある。
(ジャックのためにも、裁判までにここから出なくちゃ)
カーテンの向こうでは、着々と裁判への打ち合わせが進んでいく。
「僭越ながら、俺がジャック君の弁護人になろう。被告人側の関係者席を、五つ確保してもらいたい」
「可能ですが、五席も必要ですか?」
「ああ。ジャック君のご家族と、アリスが座る席だよ」
名前を出されて、私の胸はほんわりと柔らかくなった。
ダークは私が鏡の世界から出られると信じてくれている。
確かな信頼は、どんな慰めよりも勇気を与えてくれた。
トレヴァーは座席の確保を約束してから、「そういえば」と続けた。
「シャロンデイル公爵家の養育費争いは、公爵家が赤子を養子にとるという形で収まりました。すでに公爵夫人がお育てになっているそうですが、ご覧になりましたか?」
「おくるみに包まれている姿は見たが、まだご紹介に預かれていないんだ。その子のお名前は?」
トレヴァーが口にした赤ちゃんの名前に、私は引っかかりを覚えた。
(最近、どこかでその名前に遭遇したような気がするわ。どこだったかしら……)




