四話 鏡の向こうの世界
「静かだわ……」
私は一人でロンドン中を歩き回っていた。
正しくは、鏡の向こう側のロンドンだ。
全てが左右逆転した世界に人はいない。
馬車も走っていなければ、工場も動いていない。
風がないので木々の葉も揺れない。静謐そのものだ。
試しに、ロンドン橋のそばのレストランに行ってみたが、バルコニーにいるはずのトレヴァーとは会えなかった。
ボートハウスに残してきたリーズも見つからない。
ダークは、持ち前の行動力で捜索に当たっていそうな予感がしたが、テムズ河の近くをうろうろしても声は聞こえなかった。
同じ場所にいても仕方がないと思った私は、街歩きに繰り出した。
どこかに現実世界に戻る扉があるかもしれない。
大きな鏡ならどうだろうと、ブティックの前に立てかけられていた姿見に飛びかかるも、鏡面に激突して痛いだけで終わった。
「くっ! そう簡単にはいかないってわけね!」
用心のため、拳銃を片手に道を進む。
水に濡れなかったので、整備しなくても銃弾が撃てるのは、不幸中の幸いだ。とはいえ残っている弾数は少ない。
もしも低級の悪魔に襲われたら、すぐに使い切ってしまう量だ。
以前、ダークと行ったオックスフォードサーカスのティールームに寄った私は、不思議なことに気がついた。
「あれ?」
西部劇に出てくるようなスイングドアをくぐると、雑草の生えた野原に出てしまった。後ろを振り向くと、ティールームの外観にそって組み立てた一枚壁が見える。
「映画のセットみたいなハリボテになっているわ。テムズ河の近くにあるレストランは内装やテーブルの数まで同じだったのに……」
二つの違いはなんだろう。
考えながらリデル邸に向かってみるが、通りから私有地に入る道路がなくなっていた。先は、霧がかかっていて見えない。
(ここは、単純に左右対称なだけの世界ではないんだわ。鏡に映らないところがどうなっているか分からないように、『鏡の悪魔』――公爵夫人が知らない場所は存在しないってわけね)
今度はイーストエンドへと向かう。
事件現場はとうに掃除されているはずだが、壁には、切り裂きジャックの犯行声明がそのまま残されていた。
左右が逆転しているので読みづらいが、私が見たときよりも字が鮮明だ。
メッセージが書かれた直後だからである。
通りには血だまりも残っていた。
(切り裂きジャック事件が起きた当夜、公爵夫人も現場にいたんだわ。血で書かれたメッセージを目撃していたけれど、警察によって消されたあとの現場には行っていないから、この光景が残されているようね)
ついでに辺りを探してみたが、二人目の被害者は見つからなかった。
「そう簡単にはいかないみたい……」




